昭和の鉱山の作業の様子を引き続き見学する。
江戸時代には鑿で手掘りしていた鉱山も、昭和の時代には削岩機、削孔機で掘り進めるようになった。
坑道の岩盤が軟弱な箇所は、人為的に補強したが、その工法の一つである五枚合掌支柱組が印象的だった。檜の丸太を組み合わせた支柱組は、安心感を与える。
坑道の途中、白い石英の中に金が浮き出ている場所があった。
写真の白くなっている個所が石英だが、その表面の黄色くなっている部分が金であるらしい。人間が価値を置く金も、元の姿はこのようなものだ。
鉱山の中には、鉱脈が至る所にあるが、鉱脈は丁度1枚の板のように地底の奥から噴出しているものらしい。
その鉱脈を、ダイナマイトや削岩機で破砕して採掘すると、鉱脈を掘ったところが板状の幅広い穴になる。このような採掘方法をシュリンゲージというらしい。
まるで地獄に通じる穴の様だ。このような巨大な鉱脈も、削孔機で開けた孔にダイナマイト入れて爆破する発破作業で掘って行った。
発破作業で破砕した鉱石は、ローダーという圧縮空気で動く機械で掬って、後につながれた鉱車に積み込んだ。
さて、鉱山の採掘は、鉱脈を探し当てることから始まるが、明治以前の探鉱は、山師が地表に顔を出している鉱石(露頭)を見つけ出し、そこから下へ下へ掘っていく採掘方法だった。
しかし、明治以降は、まず垂直に竪坑を掘り、そこから横に坑道を掘って行って、ボーリングという機械でコアと呼ばれる鉱石を採取し、鉱脈を探り当てる方法が採られた。
このボーリング作業によって、より効率的に鉱脈を探り当てられるようになった。
更に進むと、天正五年(1577年)にここを訪れた秀吉が、飲んで美味を褒め称えた太閤水が湧き出ていた。
秀吉はこの水で茶をたてたそうだ。となると、この坑道は天正五年には既にここまで掘られていたことになる。
昭和時代には、作業員は竪坑を上下するエレベーターを使って鉱山に出入りした。
このエレベーターは、作業員や資機材だけでなく、2トンまでの鉱石を載せることが出来た。
エレベーターは、太いワイヤーを使って動かしていたが、そのワイヤーの巻き揚げ機がそのまま残されている。
この巻き揚げ機は、昭和4年に東京石川島造船所によって製作されたものだ。昭和の機械は魅力的だ。
鉱山は男の職場のように思われがちだが、どうやら女性も労働力として活躍していたようだ。
砕女(かなめ)という、鉱石を金槌で砕いて、銀鉛を含む鉱石を選り分ける作業員などがいたようだ。
また、江戸時代には、振矩師(ふりがねし)という、長年の経験で坑内を測量し、坑道を設計する測量士がいた。
さて、暗い坑道の見学もようやく終点に近づいた。
坑道の出口手前には、その日採掘された鉱石の出来を点検し、記録する代官所の役人の詰所がある。
徳川幕府の財政を支えた鉱山の実態が実感できる。
ここから進むと、トロッコ列車のレールの跡が坑道出口まで続いている。地上の光が見えてきた。光を見ると、やはりほっとする。
さて、地上に出て振り返ると、三ツ留という檜柱で造られた江戸時代の坑口が再現されていた。
坑口の上の2本の化粧木は、鳥居を表したものであるらしい。
坑道出口の上には、生野銀山初期に、地表に露出した鉱脈を手掘りして出来た、滝間歩旧坑の作業をマネキンが再現していた。
400年以上に渡って、生野銀山は採掘されてきた。
鉛や錫は、資材として道具の原料に利用された。金銀は、それ自体が価値あるものとして、物を交換する尺度である貨幣として利用された。
一塊の鉱石に含まれる鉱物資源は微量である。鉱物資源を得るために、人々は時間をかけて、膨大な手間のかかる作業を行った。そして鉱山は掘り尽くされた。
長年月これだけの坑道を掘り進めさせた原動力は、生活を良くしたいという人間の欲である。人間の欲が生み出すエネルギーの膨大さを思い知った。