神戸市立博物館の1階に降りると、無料で見学できる神戸の歴史展示室がある。
古代から戦後までの神戸の歩みを学ぶことが出来る。特にジオラマの展示が見応えがある。
神戸市垂水区にある兵庫県内最大の前方後円墳、五色塚古墳の模型は、かなり精密に作られている。
この五色塚古墳の墳丘上に並べられていた鰭付円筒埴輪も展示されている。こんな大きな円筒埴輪が出土した古墳は、全国的に見ても珍しいのではないか。
縄文時代、弥生時代、古墳時代の石器や土器の展示のなかで、神戸独特のものはなかった。
考えようによっては、統一国家が成立していない縄文時代や弥生時代でも、日本各地の文化様式がほとんど同じだったということになる。これはこれで不思議だ。
その後平清盛が、大輪田泊を日宋貿易の拠点にするため、大規模に改修した。
神戸市立博物館の1階には、平清盛のブロンズ像が置かれている。平清盛は、日本の歴史の中では悪役のような扱いだが、神戸にとっては恩人である。
清盛の死と平家の滅亡によって、大輪田泊の改修工事は一時中断となった。
明治初期に浮世絵師歌川芳藤が描いた、「摂州一の谷鵯越ヨリ義経平家ヲ攻ムル図」と題した浮世絵は、極彩色で躍動感に溢れた名画だった。
鎌倉時代に入って、僧重源が大輪田泊を修築し、港の基礎が出来た。
重源は、平家によって焼き払われた東大寺の再建の責任者である大勧進職(だいかんじんしき)に任命された人物で、土木建築に特異な才能を見せた僧である。
室町時代に入ると、大輪田泊は兵庫津と呼ばれるようになり、日明貿易の拠点になった。
応仁の乱の戦火で兵庫津は大損害を受けたが、江戸時代に入って尼崎藩領となり、その庇護の下復興した。
江戸時代の交通の主力は船である。兵庫津は、日本有数の寄港地となった。
江戸時代の海運の主力となったのは、弁才船と呼ばれる木造帆船である。
兵庫津では造船業も盛んで、船大工や碇鍛冶など造船に携わる職人も多く住んでいた。
神戸市兵庫区には、今でも船大工町という地名が残っている。かつて船大工が多く住んでいた町なのだろう。
明治時代に入り、兵庫津の東側の神戸村に新たな港が出来て、外国に開放された。
神戸には外国人が居住する居留地が出来た。
洋館が立ち並び、西洋人が行き来する居留地は、幕末を生きてきた日本人からすると、目を白黒させるような光景だったろう。
明治32年に居留地は廃止されたが、その後神戸港の貿易量は増大し、神戸に海運会社や金融機関、商社の支店が続々と出来た。
大正時代には、栄町通、旧居留地を中心に、重厚な石造やレンガ造りのビルが立ち並ぶようになる。
神戸は、レジャーも盛んな地域になった。須磨、舞子の海岸には、夏ともなれば、海水浴客が多く訪れた
イギリス人のA.C.グルームが別荘を建てたことで開発が始まった六甲山は、市民が登山やゴルフ、スケートを楽しむ憩いの場になった。
また、湊川が付け替えられた後、旧湊川を埋め立てて出来た新開地には、映画館や劇場が立ち並び、娯楽の街として発展した。新開地は、戦前では神戸最大の繁華街であった。
昭和5年には、「観艦式記念海港博覧会」が、昭和8年には「第1回神戸みなとの祭」が開催された。
神戸は、モダンな都市として順調に発展した。
昭和13年には、神戸は阪神大水害に襲われる。大雨のため六甲山で大規模な土砂崩れが起こり、土石流が町に流れ込んだ。数多くの死者、行方不明者が出た。
谷崎潤一郎の「細雪」は、昭和10年代の神戸阪神間の中上流階級の人々の生活空間が舞台だが、昭和13年の阪神大水害の場面は、手に汗を握る迫真の描写である。ここが小説全編のクライマックスになっている。
その後、昭和20年の神戸大空襲で、兵庫や新開地の町はほぼ全焼した。
平成7年の阪神淡路大震災で神戸が受けた被害の大きさは記憶に新しい。
神戸は、数々の戦火や災害を乗り越えて、時代をリードしながら発展してきた。
これからも、時代の先端を切り開いて発展してもらいたい街だ。