国道2号線と岡山バイパスの分岐点近くの岡山市東区浅川にあるのが、浦間茶臼山古墳である。
この古墳は、3世紀後半に築かれた前方後円墳である。3世紀半ばに築かれた奈良の箸墓古墳と同形で、大きさが丁度2分の1に縮小された古墳である。
岡山県下では最古の前方後円墳であり、当時の吉備地方の大首長が葬られたものと見られている。
前方後円墳の発生は、3世紀半ばのことであり、そのころには大和王権は畿内に覇を唱えていたと思われる。
3世紀後半になって、畿内から離れた場所にも前方後円墳が築かれ始める。前方後円墳は、大和王権の中心人物か、王権と関係の深い者しか築くことができなかったと想像される。前方後円墳がある場所は、大和王権の影響下にあった。
浦間茶臼山古墳は、前方部がバチ型をしており、最古形式の前方後円墳である。
浦間茶臼山古墳は、墳丘部が樹木や雑草に覆われて、墳形を確認することが難しい。
古墳の北側を巡る道があり、かろうじて前方部と後円部のくびれの部分を確認できる。
後円部に登る道があったが、登ってみた所、一面に雑草が生い茂っている。乱掘した跡があるとのことだが、全くわからなかった。
以前も書いたことがあるが、日本列島における前方後円墳の拡散経過を時系列順に地図に落として行ったら、大和王権が勢力を広げていった過程が浮かび上がってくるだろう。
その過程と記紀の記述を比べて見たら、何か新しい発見があるかもしれない。
さて、岡山市内を貫流する旭川の洪水対策として、江戸時代初期に造られた人工河川が百間川である。旭川が増水した時に、水を東に逃がす役割を果たした。
百間川の河川敷は、今はスポーツ施設や公園が設置され、市民の憩いの場となっている。
戦後、百間川の川床を発掘したところ、縄文時代から中世までに至る遺跡が多数見つかった。原尾島遺跡、沢田遺跡からは、縄文時代後期の建物跡が、兼基遺跡や今谷遺跡からは弥生時代の掘立柱建物群の跡が、米田遺跡からは古代の道路や堤防の遺跡がみつかった。
現在、百間川河川敷公園の百間川橋と沢田橋の間には、発掘された古代建物跡や橋脚跡を再現したオブジェが展示されている。
米田遺跡からは、鎌倉時代初期の12世紀末から室町時代末期の16世紀中ごろまで使用された橋脚と基礎の遺跡が見つかった。
橋が架けられた鎌倉時代には、橋脚を単に地面に差し込んだだけの単純な作りだったが、橋が流されたり壊れたりするごとに再建され、室町時代末期には川床に石を敷き詰め、基礎を作って橋脚の周囲を固めていたようだ。
河川敷公園内には、橋脚と基礎を再現したものが展示されている。
このように、中世の橋脚の基礎が見つかったのは全国的に珍しく、土木工事の歴史の面からも注目すべき例であるという。
その他、公園内には、百間川遺跡群から発掘された竪穴住居の床面が再現されている。全部で5つあるが、その中で最も規模が大きいのは、原尾島遺跡から発掘された弥生時代後期の竪穴住居である。
外側に8本の、内側に6本の柱があった、大きな住居である。
この建物の遺跡は、火災で焼失した跡があったという。
古墳時代になると、竪穴住居も竈を設置するようになるが、竈跡のある竪穴住居も展示してあった。
この竪穴住居は、古墳時代後期のもので、7世紀前半のものだろう。こちらも原尾島遺跡から発掘された。竈は当時の最新鋭設備だったのだろう。
当時の調理風景を想像すると、庶民が住む竪穴住居では、竈に土器を設置して煮炊きをし、包丁は石包丁で、食材を盛る器は土器か木皿か葉だったろう。
当時の庶民の家の食卓で箸が使われていたかどうかは分からない。手で直接つまんで食べていたかも知れない。
現代と違って、日々の食糧を入手するのに皆必死になっていた時代だ。
こういう遺跡を見ると、よくもご先祖様たちは苦難を乗り越えて現在まで命のバトンを渡したものだと、尊敬の念が湧く。