日本が統一国家への道を歩みだした西暦250年ころに、最初期の前方後円墳が大和に登場する。
いわゆる古墳時代は、この頃に始まる。
その後、前方後円墳は日本全国に広がっていくが、この前方後円墳の拡散過程が大和王権の日本統一の過程と重なっている。
だが吉備では、前方後円墳誕生前の西暦200年前後に、楯築(たてつき)遺跡のような、全長80メートルという弥生時代において日本最大の王墓が築かれていた。
楯築遺跡は円墳だが、長方形の張り出しが付けられており、後の前方後円墳のプロトタイプとも言われている。
また、楯築遺跡を代表とする弥生時代の吉備の墳丘墓上には、特殊器台と呼ばれる背の高い土器が並べて置かれていた。
特殊器台は、2世紀の吉備で誕生したもので、死去した首長の祭祀に使われていたものと言われている。
特殊器台はその後大和の前方後円墳でも祀られるようになった。
吉備に前方後円墳の前身である張り出し付の墳丘墓があり、吉備で生まれた特殊器台が後に大和で使用されるようになったということは、大和王権の元となった勢力が元々吉備にいて、大和に移ったのではないかと推定させる。
記紀の神武東征説話でも、神武天皇一行は吉備で数年間過ごしてから大和に向かったことになっている。ここに歴史的事実の痕跡があるのではないか。
大和では、古墳時代が進むと、特殊器台の代わりに埴輪が古墳に祀られるようになる。
「日本書紀」の第12代垂仁天皇の記事に、古墳に殉死者を埋める代わりに人型埴輪を埋めることが始まったと書いてある。
特殊器台の流れを汲む円筒形埴輪から、人物埴輪、動物埴輪、家形埴輪などに発展した。
古墳近くの岡山市高塚遺跡、赤磐市斎富遺跡、倉敷市菅生小学校裏山遺跡からは、5世紀に朝鮮半島から齎された焼き物が多数出土している。
渡来人が古代吉備に多数住み着いていたことを現している。
古代の難波、吉備、北部九州、朝鮮半島は、瀬戸内海と玄界灘を通じて航路で繋がっていたことだろう。
ところで天皇の皇位継承のシンボルと見做されている三種の神器は、天照大御神が邇邇芸命に与えた八咫鏡(やたのかがみ)、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)だが、鏡、剣、勾玉は、古墳時代に副葬品として各地の古墳に埋められた。
岡山県下の古墳からも、鏡、剣(大刀)、勾玉は多く出土している。
古墳時代に副葬品として埋葬された鏡、剣、勾玉を、皇位継承の象徴として今も伝えている我が国は、古墳時代の文化を現代に継承していると言えよう。
また、岡山県からは、全国の陶棺の8割弱が出土している。
岡山県出土の陶棺の中でも、美作出土のものは7割を占めている。
なぜ、美作で陶棺が多く作られたのかは分からない。
7世紀半ばに薄葬令により古墳造営が禁じられてから、各地では寺院が建設され始めた。
寺院の屋根に使われたのは、瓦である。7世紀前半には、百済から伝わった清楚な単弁蓮華文の瓦が用いられたが、7世紀後半には唐から伝わった複雑な複弁蓮華文が用いられるようになった。
この時代、瓦は官衙や駅家といった国の建物でも用いられた。瓦は、当時役所と寺院でしか使われない高級品であった。
飛鳥白鳳時代から、日本が律令国家への道を歩み始めた奈良時代には、行政は複雑になり、文字が使われるようになった。
役人は、記録を付けるため、墨書をするようになる。
また、奈良時代は、国家が仏教を国の基として定めた時代である。
奈良の大寺院の堂内は、仏像を象ったタイルである塼仏(せんぶつ)で飾られていた。
今まで宗教的な祭祀の器具が、銅鐸、特殊器台、埴輪、鏡、剣、勾玉、仏像と移るのを見てきた。
時代の推移と共に、人の心の拠り所も変わっていくのがよく分かる。
また砂鉄と燃料となる木材が豊富な吉備は、製鉄が盛んであった。古墳時代後期から製鉄が始まったと言われている。
製鉄の原料の砂鉄と燃料となる森林に恵まれた中国山地は、たたら製鉄と言われる製鉄の一大産地となった。
たたら製鉄は、西洋の製鉄技術が伝わった明治時代まで行われた。
江戸時代の岡山藩の進取の気性に富んだ統治を見ても、古代から近代まで、吉備は日本の歴史において、常に先進地域であったと言ってもいいのではないかと思われる。