津山弥生の里文化財センターの2階には、津山市内の古墳から発掘された埴輪が展示されている。
埴輪というと、殆どの人が人型埴輪を想起すると思うが、初期の埴輪は土管のような形をした円筒埴輪であった。
円筒埴輪は、古墳の上部に、半ば地面に埋められて設置された。
弥生時代には、祭祀用に使うものとして、壺形土器と、壺形土器を上に載せる器台形土器が作られた。
それが弥生時代後期になると、墳丘に飾るものとして、特殊壺形土器と特殊器台形土器に進化した。
特殊器台形土器や特殊壺形土器は、赤く彩色され、特殊な模様で装飾された。
過去に紹介した弥生時代最大の墳丘墓、楯築遺跡からも、特殊器台形土器や特殊壺形土器が発掘された。
畿内に発生した前方後円墳からは、特殊器台形土器によく似た円筒埴輪が発掘されている。
特殊器台形土器と円筒埴輪の違いは、特殊器台の底が広がっているのに対して、円筒埴輪の底は筒状に真っ直ぐであることである。
これは、特殊器台形土器が、地上にそのまま置かれたのに対し、円筒埴輪が半ば地中に埋められて設置されたことを表している。
特殊壺形土器と特殊器台形土器は、吉備地方からしか発掘されていない。それとよく似た円筒埴輪が、吉備の墳丘墓の後に畿内に誕生した前方後円墳から発掘されるということは、前方後円墳を築いたヤマト王権の勢力が、吉備からやってきた証ではないかとも考えられる。
さて、5世紀ころから人物を象った埴輪が作られるようになった。巫女の埴輪も作られた。
どうやら古墳時代には、巫女が登場していたようだ。
また、武人の埴輪は、人形埴輪の定番である。
古墳時代には、鉄がかなり普及し、鉄製の兜や鎧も作られるようになった。
写真の武人は、短甲という短い鉄板を繋げて作られた鎧を着ている。
また古墳時代に大陸から渡来してきたものが、馬であり乗馬技術である。
土馬と呼ばれる馬形の埴輪も作られた。
当時の馬は、有力者しか乗ることが出来ない高級品であった。
乗馬のために必要な鞍や尻繋(しりがい)、轡といった馬具も、贅沢な道具であった。
有力者の古墳には、豪華な馬具が装着された装飾土馬が埴輪として埋葬された。
現代の有力者が、自分の墓に生前愛用した高級車のミニカーを埋葬するようなものか。そう考えると、ちょっと子供っぽい気もする。
さて津山弥生の里文化財センターは、沼弥生住居跡と隣接しているが、令和3年に訪問した時には、復元された高床倉庫を見学するのを忘れていた。
今回、改めて見学することが出来た。
沼弥生住居跡からは、1号から3号までの、3つの高床倉庫の柱跡が発掘された。それぞれの柱跡の位置に柱を立てて復元している。
高床倉庫は、集落で収穫された米を貯蔵するための建物で、集落の者が共同して管理していた。
沼弥生住居跡には、1号倉庫跡の柱の配置と銅鐸に刻まれた建物の絵図から、推定復元された高床倉庫がある。
復元された高床倉庫を見ると、神社建築の唯一神明造にそっくりである。
こんなところからも、神道には、弥生時代の祭祀文化が受け継がれていると感じる。
沼弥生住居跡から西に行った津山市大田の津山市立北陵中学校は、弥生時代後期の集落跡である大田十二社遺跡の発掘された辺りである。
ここから横野川沿いを北上する。津山市山方の集落の北側の山は、弥生時代後期の埋葬地跡である上原遺跡が発掘された場所である。
これで今回の津山市の弥生遺跡の紹介は終わりである。
弥生時代は、水稲耕作が始まった時代だが、土地から収穫される米が経済の基盤となったその後の日本の歴史の始まりのような時代である。
米を貯蔵することで、経済的余裕が出来た日本人は、各地にクニという組織を作って、争うようになる。
その中から、統一国家であるヤマト王権が誕生する。ヤマト王権を率いた大王は、現在の皇室の祖先である。
奇しくも今日は、新嘗祭の日である。宮中で天皇が、収穫された新米を天照大御神に捧げ、神と共に食するという儀礼が行われる日である。
米作を神聖視する弥生時代の伝統は、今も続いていると言える。