太山寺境内の東側にある羅漢堂と釈迦堂の位置関係は、丁度神社の拝殿と本殿の位置関係に似ている。羅漢堂の奥に釈迦堂がある。
羅漢堂は、正面に華頭窓と大きな唐破風を持つ寺院建築である。建立は江戸時代後期と伝えられる。
内部には、四天王像、十六羅漢像、釈迦の四大弟子像が安置されている。草花が描かれた格天井が特徴的だそうだ。
羅漢堂の奥にあるのが、釈迦堂である。これも江戸時代後期の建立だ。
釈迦堂は宝形造りで、内部に釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩の釈迦三尊像が祀られている。
釈迦堂の彫刻がなかなか見事であった。
鳳凰など、微細に彫られている。
本堂の南東にあるのが太子堂である。太子堂には、聖徳太子が祀ってあるが、このお堂の形は、一度訪れたことがある奈良県の談山神社の本殿によく似ている。
談山神社本殿と何かゆかりがあるのだろうか。
聖徳太子は、日本仏教の実質上の創始者で、日本仏教界の恩人である。太子の尽力がなければ、今の日本にこれほど寺院が建てられることもなかったかも知れない。
さて、太子堂から境内の東側に出ると、奥の院に至る遊歩道がある。
とは言え、奥の院は境内から歩いてすぐの場所にある。境内の東側を流れる太山寺川に架かる閼伽井橋を越えれば、奥の院とされる稲荷舎と地蔵堂がある。
お稲荷さんに鳥居を奉納すれば御利益があると言われているが、伏見稲荷大社の赤鳥居の数に比べればまだここはささやかだ。
地蔵堂に祀られるお地蔵さまは、一願地蔵と言って、一つの願い事に限って御蔭をいただけるという巷説で名高い。私も一つ願いをかけてみた。
太山寺の北東の山上には、かつての砦の跡である太山寺城址がある。
太山寺の僧兵は、大塔宮護良親王の鎌倉幕府追討の令旨を得て挙兵し、播磨の雄赤松円心の軍と合流し、京都を目指した。その時の令旨は、今も太山寺が所蔵している。
この僧兵たちは、赤松円心が鎌倉幕府の京での拠点である六波羅探題を攻略するにあたって大きく力添えをした。
太山寺城が、どのような経緯で誰によって築かれたかはよく分かっていない。赤松円心と関係があるかもわからない。
現在、太山寺城址のある山の頂上には、帝釈観音堂があり、登山道沿いには観音菩薩の石像が置かれている。
登り口の石碑からすると、どうやらこの山は西国三十三所の寺院に祀られているものと同じ観音菩薩の石像を巡ることが出来る、ミニ巡礼路となっているようだ。
途中、かつて城だったと思わせる土塁の跡や、大きな堀切の跡がある。
それでも、標高200メートルもない山である。案外あっけなく頂上に着いた。頂上には、巨岩があり、その上に帝釈観音堂が建てられていた。
この巨岩からしばらく進むと、少し平らな開けた場所があり、不動明王や神変大菩薩こと役小角などの像があった。
役小角が祀られているということは、この山も元は太山寺の修験行者たちが修行した山だったのだろう。
さて山を下りて太山寺川(伊川)を遡ると、川沿いの花崗岩の断崖に刻まれた太山寺磨崖不動明王が見えてくる。神戸市指定史跡となっている。
平成6年の調査で、この像の右側に「弘安」の年号が刻まれているのが確認された。弘安は、2回目の元寇のあった時代であり、西暦で言えば1278~1288年の間となる。
この不動明王像は、迦楼羅炎光背を背負い、右手に宝剣、左手に羂索を持ち、衣服の襞なども丁寧に彫られている。
太山寺本堂が再建される少し前に彫られたものである。この不動明王立像の下には、川の淵がある。おそらくかつてここは修験行者たちの行場だったのだろう。行者たちが、修行のためにこの場所に磨崖不動明王を彫ったのだろう。
この太山寺訪問で私の播磨史跡巡りは完了した。播磨史跡巡りで最後に目にしたのが、この摩崖不動明王であった。
何かの縁があったのかどうかは分からないが、史跡巡りをするうちに、私も真言密教経由で修験道のような山岳宗教に興味を持つようになった。そう考えれば、この不動明王像にも多少の縁があったのかも知れない。
「ノウマク サンマンダ バザラダン センダ マカロシャダ ソハタヤ ウンタラタ カンマン」という不動明王の真言を唱えてみた。
そして播磨史跡巡りの完了を無事迎えたことを喜んで、心の中で密かに祝杯を挙げた。