明石市大蔵中町にある稲爪神社は、三嶋大明神を祀る神社である。
日本の正史である「日本書紀」には記載がないが、推古天皇の時代、朝鮮半島から、全身を鉄で覆った鉄人8千人が日本に攻めて来たという伝承がある。
日本側は九州で鉄人達と戦ったが、全身を防備する鉄人に全く歯が立たなかった。
伊予国の四等官越智益躬(おちのますみ)が官命で九州に赴き、鉄人達を迎え撃ったが、これも敵わなかった。
越智は一計を案じ、わざと鉄人に降伏して、鉄人達を畿内まで案内することを申し出た。
畿内まで行く間に、鉄人の弱点が掴めると考えたのである。一行は海路畿内を目指した。
丁度明石に差し掛かったころ、越智は三嶋大明神の加護で、鉄人の足の裏は無防備であることを知った。
越智は鉄人を畿内の手前の明石に上陸させた。その時三嶋大明神の霊力で、一行の上に稲妻が走った。鉄人の大将が乗る馬が驚いてのけぞった際に、大将は足の裏を見せた。越智は鏃で鉄人の大将の足の裏を突いて倒した。大将を討たれた鉄人達は壊滅した。
越智は、戦さの後、鉄人達を撃滅した明石の大蔵谷の西に、三嶋大明神を祀る社を建てた。それが稲爪神社である。当初稲妻神社と呼んでいたものが、途中で稲爪神社に変ったとされている。
この越智益躬の鉄人退治の説話は、越智益躬を祖と仰ぐ伊予の豪族河野氏の来歴を著した「予章記」という書物に書かれているそうだ。
「日本書紀」には書かれていないが、この説話に書かれた事実が本当にあったなら、日本国が外国に侵略された最初の戦さになる。
稲爪神社は、秋祭りの獅子舞が有名で、「大蔵谷の獅子舞」として兵庫県指定文化財となっている。また、秋祭りに際しては、鉄人が黒牛に乗って日本に攻めて来た故事を伝える、「大蔵谷の牛乗り」という行事も行われる。
行事に使われる黒牛の模型が拝殿内に置かれている。
黒牛の足には車輪がついており、行事の際は人に曳かれて町を歩く。
日本の神社をこまめに回れば、「古事記」「日本書紀」に載っていない独自の伝承が多々みつかることだろう。
そんな伝承を集めて、一つの書物にしたら面白かろう。
大蔵谷は、かつては西国街道沿いの宿場町として栄え、阪神淡路大震災まで格子窓を持った古い家も数多く残っていたが、今はめっきり数が減った。
稲爪神社の南側に、往時の面影を残す古い家があった。
さて次に、明石市人丸町の松巌山長壽院を訪れた。ここは浄土宗の寺院で、明石藩松平家の菩提寺である。
明石藩松平家は、家康の子・結城秀康が開いた越前松平家の流れを汲む家である。天和二年(1682年)に、秀康の孫・松平直明が越前木本城から明石城に移った時に、木本にあった菩提寺長壽院を明石に移したとされている。
長壽院の本堂、書院、庫裏、山門などは、昭和20年7月6日の空襲で焼失し、今は鉄筋コンクリート製の本堂が建つ。
境内の墓地には、明石藩最後の儒学者で、「明石名勝古事談」などを著した橋本海関の墓がある。
長壽院には、明石藩松平(越前)家初代藩主直明から第八代斉宣までの藩主と家族の墓所がある。
墓所の門を潜ると、斉宣の位牌を祀る御霊屋がある。斉宣は、徳川第11代将軍家斉の子で、明石藩に養子に入った。
斉宣は、養子になったとは言え、徳川将軍の実子であったため、大事に扱われたのであろう。この御霊屋は、斉宣の死後、弘化二年(1845年)に、第九代藩主慶憲が建てたものである。
彫刻が見事であった。
この御霊屋の裏に、墓所で最も大きい斉宣の墓がある。
この墓所の墓は、美しい大理石で築かれている。長い年月を経ても風化が僅かで、美しい姿を保っている。葵の紋が輝かしい。
ここは私が史跡巡りで初めて訪れた徳川親藩ゆかりの地である。
徳川家が日本の隅々まで張り巡らした幕藩体制は、外圧が来るまで揺るぎのない鉄壁の構えを見せたが、それが良くも悪くも、250年近い戦乱のない世を作った。
徳川の治世についても、これから触れる機会が増えるだろう。