箱木千年家から北東方面を見上げると、次なる目的地の丹生(たんじょう)神社が山頂にある丹生山が見える。
丹生山は、標高約515メートルの山で、帝釈山、稚児ケ墓山、花折山などと共に、丹生山系という山地を形成している。
丹生山には、箱木千年家周辺に入口のある、義経道という源義経ゆかりの道からも登ることが出来るが、私はオーソドックスに丹生神社の一の鳥居からの参拝道を登ることにした。
丹生神社の祭神は、丹生都比売(にうつひめ)命である。丹生都比売命は、水銀鉱業を生業とする丹生氏の氏神である。
神社建築の朱塗りなどに使われる丹土(たんど)は、硫黄と水銀が化合した辰砂と呼ばれる赤土である。
古代、朱色は魔除けの色とされ、古墳の石室や棺の中にも塗られている。
「播磨国風土記」では、神功皇后が丹生都比売命の神託を受けて丹生山にやってきて、丹土を採取して、船や武具に塗って朝鮮に出征し、無事に帰って来たという。
丹生山は、辰砂が取れる山として、貴重な山だったのだろう。
丹生山には、江戸時代まで、丹生神社だけでなく、明要寺という寺院があった。明治の神仏分離令により廃寺となったが、かつて平清盛が福原に遷都する構想を持った際、西の比叡山にしようと考えたほどの大規模な寺院であった。
丹生山の登り口から頂上まで、一丁(約110メートル)毎に建てられた丁石があるが、これも清盛が建てたものと言われている。
丹生山の登り口の道の真ん中には、地蔵があるが、その下に「従丹生山二十五丁」と彫られている。山頂から最も離れた丁石である。
この地蔵は、流石に清盛の時代のものではなく、せいぜい江戸時代後期のものだろうと思われる。
この地蔵から山頂まで、一丁毎に丁石が建っている。
この地蔵のすぐ下に、丹生宝庫という、明要寺の宝物を収蔵している庫がある。
丹生宝庫には、清盛が寄進した明要寺の伽藍図や、秀吉公朱印折紙などが収蔵されているという。毎年5月5日に公開されるらしい。
丹生宝庫には、彫刻が施された唐破風が付いているが、ひょっとしたらこの唐破風は、元々明要寺の建物に付いていたもので、明治の廃寺に際し、保存されることになったのではないかと思った。
さて、地蔵の脇を通って、丹生山に向かって歩き始めた。登り始めてすぐ道が二股に分かれる。左側の黄色い車止めのある方が、丹生山への道である。
途中から道が舗装され、案外登りやすい。
道の脇には丁石がある。この丁石は、伝説では清盛が建てたとされているが、実際は南北朝時代以降のものであるらしい。
清盛は、丹生山と明要寺を、王城守護のための西の比叡山にしようとし、山上に比叡山の守護神、日吉山王権現を勧請した。
山王権現は、明治まで祀られていたが、明要寺が廃寺となってからは、山王権現は丹生神社になり、丹生都比売命が祭神となった。
山道を登っていくと、途中水音が聞こえてきた。沢が流れている。
沢沿いに舗装路を歩くと、赤いちゃんちゃんこを付けた延命地蔵が見えてくる。明要寺があったころの名残の地蔵だろう。
この延命地蔵から左に曲がると、丹生山頂に至る。曲がって直ぐに昭和16年に架けられた石橋がある。
橋の手前の丁石を見ると、山頂まで十一丁のところまで来たことが分かった。
橋を渡ると、俄かに道が急になった。全身汗まみれになって登っていく。
そしてようやく山頂まで二丁の丁石まで来た。最後の丁石である。
丹生神社の二の鳥居の手前の台地に、昭和後期の兵庫県知事坂井時忠が揮毫した「史蹟 丹生山城 丹生山明要寺跡」の石碑があった。
明要寺は、多くの僧兵を有したが、南北朝時代に新田義貞の将の金谷経氏が僧兵を頼って丹生山に城を築いたという。
丹生山明要寺は、百済聖明王の王子恵が創建したと伝えられる。王子恵は、半島から技術者集団を引き連れて、明石に上陸し、明石川を遡り、勅許を得て丹生山に堂塔伽藍を建立したという。王子恵は、史実では百済王として半島で即位し、死去したとされているので、明要寺創建説話は伝説の域を出ない。
斉明天皇六年(660年)、唐に攻められた百済は滅亡した。百済は日本の同盟国だったため、百済の王族を始め、多数の百済人が日本に難民として渡って来て定住した。
百済の遺民が明石に上陸し、東播磨やこの地に寺院建築の技術を伝えたことはあったかも知れない。
日本の歴史を調べると、日本は決して純血な一民族による国家ではなく、海を渡って来た様々な民族が混淆して出来た移民国家であることが分かる。
少子高齢化が進むこれからの日本は、必然的に古代と同じく移民国家の道を歩まざるを得なくなると思われるが、私は案外日本文化はそれによって揺らぐものではないと楽観視している。
その理由については、今後日本という国の形や、日本の行く末について触れる機会があれば書いてみたい。