近くにある真宗大谷派の月池山光明寺と区別するため、通称「浜光明寺」と呼ばれている。
浜光明寺の山門は、屋根の瓦が崩れ始めている。しかし、彫刻などはなかなか見事なので、修復して山門を元の姿に戻せば、寺の入口に相応しい立派なものになるだろう。
浜光明寺は、鎌倉時代末期の元亨年間(1321~1324年)に、真誉上人によって三木に創建されたという。
小笠原忠真が明石城下町の整備をした時に、この地に移されたという。
山門右手に石造の阿弥陀三尊像がある。
嘉永七年(1854年)の夏から秋にかけて、近畿では地震や大風雨で多くの人々が犠牲になった。この阿弥陀三尊像は、それら犠牲者を供養するために建てられたものであるらしい。像の下には、「為水陸横死」と彫られている。
見事な石造仏だが、砂岩製のため、風雨による浸食が激しい。
本堂は、幕末に建てられた堂々たる建物である。
本堂の前の雨樋の水を受ける水盤には、蓮の花が咲いている。心洗われる美しさだ。
浜光明寺には、朝鮮半島から伝来した「盂蘭盆曼荼羅」がある。明石市指定文化財となっている。
また、本堂の裏の書院は、安永八年(1779年)に建立された総檜造りの木造瓦葺平屋建ての建物だが、明治18年に明治天皇が西国を行幸された時に、行在所として宿泊された建物である。こちらも明石市指定文化財である。
また、鐘楼にかかる梵鐘は、享保十四年(1729年)に鋳造されたもので、四天王像、獅子、鳳凰を浮彫で表した、江戸時代の和鐘の銘品であるという。明石市指定文化財である。
浜光明寺の境内の中で気になったのは、「楠公一族殉国由緒観世音菩薩」と彫られた石柱の建つ観音堂である。説明書きが何もないので、由緒は分らないが、楠木正成一族を供養するものだと思われる。
浜光明寺の裏手には、広大な墓地がある。その中に、幕末に明石藩を脱藩して、松石隊を結成してその後彰義隊に合流し、上野戦争を戦った明石藩大目付津田柳雪の墓がある。
幕末に明石藩主だった松平家は、徳川家の縁戚なので、佐幕に立つのは当然だが、柳雪はその中でも急先鋒だったようだ。官軍に弓を引いた津田柳雪も、今は故郷で静かに眠っている。
浜光明寺の墓地には、大洋漁業の創設者である中部幾次郎の墓もある。
中部幾次郎は、慶応二年(1866年)に明石で生まれ、父兼松の鮮魚の運搬・卸売りの仕事を受け継いだが、後下関に移り、明治37年に日本初の発動機付き漁船を開発し、東シナ海、朝鮮半島沖の漁場を開発したという。
幾次郎一代で漁業、水産物加工、海運、造船を手掛ける企業、大洋漁業を起こした。大洋漁業は、後にプロ野球球団横浜大洋ホエールズのオーナーとなった会社である。
中部幾次郎は、勅撰の貴族院議員となった。明石公園の入口には、中部幾次郎の銅像が建っている。
浜光明寺と道路を挟んで北側にあるのが、浄土真宗の寺院、月池山光明寺である。
ここには、光源氏が水面に映る月影を眺めたという、月見の池がある。
光源氏は、月見の池に映る月を眺めて、「秋風に 波やこすらん 夜もすがら あかしの浦の 月のあさがほ」という歌を歌ったという。朝顔光明寺の通称は、この歌から来ている。
とは言え、「源氏物語」にはこのエピソードは書かれていない。恐らく江戸時代に入ってから、明石藩が「源氏物語」ゆかりの地を選定する際に作られたエピソードと思われる。
朝顔光明寺の境内には、明治から昭和を生きた俳人横山蜃樓の墓があるという。境内の半分を占める墓地を探したが、真新しい横山家の墓地を見つけた。
今日は3つの墓を紹介したが、炎天下に広い墓地の中から目当ての墓を探し出すのは、なかなかの苦行である。しかし墓を見つけた時には、不思議な充実感を覚える。
どんな大人物でも、最後は骨となって小さな墓石の下に納まることを思うと、死は平等であると感じる。
最後は誰もが墓の下に入る人間の一生、どう生きるべきかを考えさせられる。