出石城跡 有子山城跡 その1

 5月29日に但馬の史跡巡りを行った。この日は、主に兵庫県豊岡市出石(いづし)町の史跡を巡った。

 先ず訪れたのは、城下町出石のシンボルとも言える、出石城跡、有子山(ありこやま)城跡である。

出石城跡、有子山城跡のある有子山

 出石は、碁盤の目のように整然とした町割りに、古い木造民家が並ぶ風情ある町で、但馬の小京都とも呼ばれている。

 出石で有名なのは、何といっても出石蕎麦である。私が出石に到着して観光駐車場にスイフトスポーツを駐車した時は、まだ観光客もまばらだったが、お昼前になると、駐車場は車で一杯で、蕎麦を目当てとした沢山の観光客が街中を歩いていた。

出石城跡の全景

 14世紀に山陰の守護大名・山名氏が、出石神社の裏にある此隅山(このすみやま)に城を築いた。

 その後、天正二年(1574年)に、山名祐豊が有子山に城を築いて本城とした。それが今に残る有子山城跡である。

 しかし天正八年(1580年)に、秀吉の弟羽柴秀長の攻撃で有子山城は陥落した。その後、前田長康が有子山城主になるが、慶長九年(1604年)に小出吉英が龍野から出石藩主として入封し、有子山城の麓に出石城を築いて居城とした。

出石城跡登城門

 出石城跡は江戸時代の平山城、有子山城跡は安土桃山時代の山城という違いがあるが、両城は隣接しており、2つ合わせて続日本100名城に選ばれている。

 出石城跡、有子山城跡は、若桜鬼ヶ城跡、黒井城跡に続いて私が訪れた3つ目の続日本100名城である。

 私はこれまで日本100名城も7つ訪れている。日本100名城、続日本100名城の200城の内、これで10城を訪れたことになる。200城の制覇はまだまだ先だ。

登城門

登城門脇の石垣

 出石城跡の西側にある登城門を潜り、出石城跡に入っていく。登城門は、最近再建されたものだが、石垣は築城当時のものだろう。

 門を潜ると、二の丸跡の石垣と、昭和になって再建された西隅櫓が目に入る。

二の丸跡の石垣と西隅櫓

 出石城跡の石垣は、大きな石の隙間にぎっしりと小さな石を埋め込んだ造りをしている。こういうタイプの石垣は、今まで見たことがない。

出石城跡の石垣

 二の丸跡は、芝生が敷かれた広々とした空間である。私が訪れた時は、城跡の写生をしているグループが腰を下ろして、一生懸命スケッチしていた。

二の丸跡

 二の丸跡の南側は、昭和43年に再建された東隅櫓、西隅櫓を有する本丸跡である。

 2つの隅櫓を控える本丸跡は、明石城跡を小さくしたような趣だ。

西隅櫓

 出石藩小出氏は、元禄九年(1696年)に無嗣のため廃絶となった。

 その後松平忠周が入封したが、宝永三年(1706年)に信濃国上田藩に転封になった。代わりに上田藩の仙石政明が出石藩に入封した。

 以後明治時代まで、仙石氏が出石藩主として8代続いた。

西隅櫓の軒丸瓦の仙石氏の家紋

 西隅櫓の横には、戦国時代に活躍した仙石氏の祖、仙石権兵衛秀久を祀る感応殿が建つ。

西隅櫓と感応殿

 仙石秀久は、美濃出身の土豪で、信長の美濃攻めをきっかけに秀吉に仕えるようになった。

 その後秀吉の下で活躍し、四国征伐の功績により讃岐一国を与えられたが、九州征伐の前哨戦である戸次川の合戦で島津軍に大敗し、改易された。

 高野山に追放された秀久は、旧家臣団を率いて秀吉の小田原城攻めに参加した。

 秀久は小田原城攻めの活躍で、戸次川の合戦の汚名を返上し、秀吉に許され、信州小諸城主になった。

 また秀久は、大盗賊石川五右衛門を生け捕りにした豪傑としても知られる。

感応殿

感応殿の彫刻

 秀久の子・忠政は信州上田に転封となり、秀久の玄孫・政明の代に、上田から出石に転封となった。

 感応殿のすぐ横には、「出石そば発祥の由来」を刻んだ石碑がある。

 宝永三年(1706年)に信州上田から出石に入封した政明は大の蕎麦好きで、国替えで出石入りした際、信州一の蕎麦職人を伴ってきた。

 その後当地で、蕎麦職人達が長年に渡り改良と技術研鑽を重ね、出石焼の皿に蕎麦を盛る「出石皿そば」に発展した。

 出石と言えば蕎麦だが、その源流は蕎麦のメッカ、信州にあったのだ。

 本丸跡の東側には、東隅櫓がある。

東隅櫓

 本丸跡の南側には、出石城跡の遺構で最も高い場所である稲荷郭があり、その石垣の前に石橋の架かった池がある。本丸の庭園跡である。

稲荷郭の石垣

庭園跡の池

 稲荷郭には、稲荷神社が祀られている。本丸よりも高い場所に郭があるのは珍しい。出石藩主は、お稲荷さんを厚く尊崇していたのだろう。

 出石城跡は、今も但馬の小京都、出石の象徴として町を見下ろしている。

 小さな城下町というものは、文化の香りがしていいものである。