湊川神社 中編

 維新の大業が成った明治元年(1868年)、明治天皇は、大楠公及び一族を奉祀する社を創建するよう御沙汰書を下した。

 明治5年5月24日、社名を「湊川神社」として鎮座祭が執り行われ、翌25日に楠公祭が斎行されて、大楠公墓所のあるこの地に湊川神社が創建された。

 湊川神社境内南西隅には、楠木正成ゆかりの刀剣・武具類約100点、書画・工芸・歴史資料約300点を収蔵した宝物殿がある。

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宝物殿

 宝物殿は、昭和38年に開館した。

 収蔵されている正成真筆の「紙本墨書法華経奥書」と、正成が着用したものと伝わる段威腹巻(だんおどしはらまき)は、国指定重要文化財である。

 宝物殿は、今は新型コロナウイルスの感染防止のため、閉館していた。私は過去に2回、この宝物殿に入ったことがある。

 この宝物殿の前には、日本最古のオリーブ樹と言われる「湊川神社のオリーブ」が植えられている。

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湊川神社のオリーブ

 このオリーブ樹は、明治6年に神戸植物試験場に植えられたものか、明治11年内務省三田育種場に植えられたものか、そのどちらかと言われている。

 明治末年に両園とも閉園となったが、その際にどちらかの園のオリーブが湊川神社に移植されたらしい。

 湊川神社と地中海に生息するオリーブの結びつきが予想外で新鮮だ。

 大楠公墓所の北側には、楠本稲荷神社がある。

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楠本稲荷神社

 楠本稲荷神社の建物の中に入ると、天井から赤い提灯が沢山ぶら下がっており、湊川神社の境内の中で、ここだけ異質な空気を醸し出していた。

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楠本稲荷神社本殿

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 お稲荷さんは、衣食住の神様である倉稲魂(うかのみたま)命のことだが、この神様は人々の願いを叶える強力な霊力を持つとされている。お稲荷さんの赤い鳥居を潜ると、いつも異世界に近づくような気持になる。
 さて、楠本稲荷神社の前には、高い金属製のポールのようなものが建っていた。

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軍艦筑摩の後檣

 このポールの様なものは、大正元年に竣工し、昭和6年に退役となった日本海軍の巡洋艦筑摩の後部マストである。 

 昭和10年5月25日に、大楠公御殉節六百年祭を斎行するにあたり、楠木正成が生前に旗印として掲げたとされる「非理法権天」を記した大旗を掲揚することになった。

 この大旗を掲揚するため、退役した筑摩の後檣が、海軍省から湊川神社に下附されることになった。

 日本海軍の艦艇の一部が、海上から陸上に変わったとは言え、今も活躍の場を与えられているわけだ。

 楠本稲荷神社から湊川神社の社殿に向かって歩いていく。

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境内半ばの鳥居

 参道半ばにある鳥居を潜ると、目の前に拝殿が見えてくる。

 拝殿と本殿については、また後日紹介する。

 本殿の東側には、菅原道真公を祀る天満神社がある。

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天満神社

 天満神社は、小さなお社で、そう古い社でもないが、蟇股の梅の彫刻が見事であった。

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蟇股の梅の彫刻

 蟇股に梅が刻まれている社は珍しい。

 湊川神社は、昨日の記事で紹介したように、皇国史観の理念が結晶化したような場所であるが、その一方、広い境内をのんびりと市民が散策する憩いの場という側面を持っている。

 神戸市民は、湊川神社を「楠公さん」と親しみを込めて呼んでいるが、実際に楠公さんが何をした人であるかを知っている人は、今となっては多くはないのかも知れない。

 戦前の教育を受けた人は、英雄の祀られる聖地という認識で湊川神社を参拝しただろうが、楠公の事績にあまり関心のない市民が数多く訪れる今の湊川神社も、のどかでいいものである。

 皇居外苑には、今も楠公像が皇室をお守りするかのように建っているが、正成の宿敵足利尊氏の開いた室町幕府は倒れ、北朝の系統とは言え皇室は今も続いている。

 「七生滅賊」を誓った楠公さんも、今は穏やかに世を見守っているように思う。