人麿山月照寺、柿本神社 後編

 歌聖と称される万葉歌人の第一人者・柿本人麻呂を祀る柿本神社。かつては人丸社とも呼ばれていた。

 昨日も紹介したが、柿本神社は明治4年の神仏分離令により、月照寺から独立した神社となった。

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柿本神社神門

 柿本神社の神門前には、ちょっとした展望広場があり、明石の町並みや明石海峡を一望できる。

 その広場に、芭蕉の「蛸壺や はかなき夢を 夏の月」という句を刻んだ句碑がある。蛸壺塚という。

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蛸壺塚

 これは、芭蕉の紀行文「笈の小文」に、芭蕉が明石を訪れた時に詠んだ俳句として載っている。

 蛸壺は、蛸をとらえるための素焼きの壺である。

 芭蕉は、夏の月に照らされた浜辺に転がる蛸壺を見て、今ごろ海中で蛸壺に入った蛸が、ここを良い住処だと思って、はかない夢を見ていると想像したのだろう。

 蛸壺塚は、芭蕉の75回忌に当たる明和五年(1768年)に俳人の青蘿が建てた。その後、俳人たちによって、2度再建されている。芭蕉句碑は、そんな昔から建てられてきたのだ。

 芭蕉の句碑は、日本全国に3000基以上あるそうだ。

 芭蕉は、「万葉集」から始まった、和歌ー連歌と続く日本の詩の伝統を、連歌の発句を独立した俳句として詠むことで新しく切り開いた、革新的な詩人である。

 人麻呂を讃仰したであろう芭蕉の句碑が、柿本神社の社頭にあるのは、場所を得ていると思う。

 その近くには、江戸時代後期の俳人西海千尋の円筒型の句碑が建つ。

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西海千尋の句碑

 「影たのめ この涼しさの 柿の本」と彫ってあるそうだ。

 柿本神社の境内に入ると、左手に人麻呂の歌碑が並ぶ。

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柿本人麻呂の歌碑

 この中で、明石に関係がある歌は、左の歌碑に刻まれた、

天離る(あまざかる) 夷(ひな)の 長通(ながち)ゆ 恋ひ来れば 明石の門(と)より 大和島見ゆ 

 である。

 「天離る」は、地方を指す「夷」の枕詞で、両方合わせて、朝廷のある都を離れた鄙びた場所を意味する。

 都を離れた遥か西から、大和国にある家を恋い慕いながら、長い時間をかけて瀬戸内海を舟で戻って来たら、明石海峡の辺りから、待ち望んだ畿内が見えた、という歌意だろう。

 船で明石海峡を越えれば、畿内は淡路島の影に隠れて見えなくなってしまう。昔の旅人からしたら、明石海峡畿内と鄙の境目だったのだろう。

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柿本神社本殿

 柿本人麻呂は、斉明天皇六年(660年)ころから神亀元年(724年)まで生きた歌人で、天武、持統朝に仕えた宮廷歌人である。

 「古事記」「日本書紀」の中には、神々や伝説的な天皇が歌ったとされる和歌が伝わっている。

 「万葉集」の中にも聖徳太子天武天皇持統天皇が歌った和歌が伝わっている。しかしそれらの和歌には、本当にその人物が歌ったものか分らないものもある。

 日本史上で、実在の歌人の特色が如実に現れていて、確実にその作者とされる人が詠ったと認められる和歌は、人麻呂のものが最初だろう。人麻呂を、日本最初の詩人と呼んでもいいと思う。

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柿本神社拝殿の扁額

 ところが柿本人麻呂は、日本の正史である「日本書紀」「続日本紀」には登場しない。「万葉集」が唯一の史料なのである。そのため、謎が謎を呼び、人麻呂と山部赤人が同一人物ではないかとする俗説まで出て来た。

 人麻呂の堂々とした雄大な和歌は、人麻呂の個性が発揮されたもので、柿本人麻呂という人物が存在していたことを示していると思う。

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拝殿に掲げられた人麻呂の絵

 柿本神社境内には、寛文四年(1664年)に、明石藩主松平信之が建てた播州石浦柿本大夫祠堂碑がある。

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播州石浦柿本大夫祠堂碑

 幕府の大学頭林春斎が撰文を書いた。この1712文字の撰文を一気に読み下せば、台座の亀が動くと伝えられている。

 拝殿前の石像狛犬は、宝暦四年(1754年)に造られたもので、明石市指定文化財となっている。明石市内の狛犬では最も古い。

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石造狛犬

 砂岩製の割には、風化せずよく残っている。立派な狛犬だ。

 また、社頭に植えられた盲杖桜のいわれはこうである。

 昔柿本神社を訪れた盲人が、社頭で「ほのぼのと まことあかしの神ならば われにも見せよ 人丸の塚」と歌を詠むと、ぱっちり目が開いた。盲人は目が見えるようになった御礼に、社頭に桜の木の杖を刺した。盲杖桜は、それが根付いたものとされる。

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盲杖桜

 今の盲杖桜は、明らかに木が若く、最近代替わりで植えられたものだろう。

 その脇には、元禄赤穂事件の四十七士の一人、間瀬久太夫が、主君の仇討を祈って社頭に植えた八房の梅がある。

 間瀬久太夫は、「まごころを 神もよみして 武士(もののふ)の 祈りはむすぶ 八房の梅」と詠って植えたという。

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八房の梅

 この八房の梅は、間瀬の歌のとおり、一つの花に八つの実が成るそうだ。間瀬の祈りは天に通じ、四十七士は無事主君の仇を討つことが出来た。

 日本で初めて和歌を詠ったのは、須佐之男命とされている。日本の文学の発祥は、日本の神々から来ている。

 そのせいか、昔から日本では、人が神前で神に歌を捧げ、それに感応した神から神力や返歌を授かったという伝説が多く伝わっている。

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柿本神社本殿

 和歌の神となった人麻呂も、多くの人が和歌に託した願いを受け入れたようだ。

 三十一文字(みそひともじ)と言われる五七五七七の和歌の調べは、日本の天から来た神々の調べなのかも知れない。