柳田國男生家から北東に行くと、播磨天台六山の一山、妙徳山神積寺がある。
神積寺は、正暦二年(991年)、慶芳上人により開基された。
神積寺は、一条天皇、三条天皇の帰依を受けたと伝えられる。七堂伽藍と52ケ寺を有する大寺院だったが、延慶二年(1309年)の火災で一度全て焼失した。
仁王門から寺域に入ると、左手に悟真院がある。悟真院の唐門は、福崎町指定文化財になっている。元文六年(1741年)建立の、優れた意匠の門である。
一度全山焼失した神積寺だが、天正十五年(1587年)に本堂が再建された。
本堂内には、慶芳上人が自ら彫ったとされる薬師如来像が祀られている。国指定重要文化財である。
本堂前には、福崎町内最古の、天和三年(1683年)製の、寂びた石灯篭が建っていた。
本堂に上がる。内陣に向かい手を合わせる。
格子の間から、須弥壇を見ると、御前立の薬師如来像があった。
宮殿内の薬師如来像は、平安時代の作である。
薬師如来像の前には、鏡が祀られている。神仏習合の様式である。
本堂から西に500メートルほど行くと、石造五重塔がある。これは、慶芳上人の墓と伝えられる塔だが、鎌倉時代中期のもので、慶芳上人の時代とは明らかに築造年代が異なる。
屋根の部分が風化して丸みを帯びて、いい味を出している。
神積寺仁王門の東方には、岩尾神社がある。
岩尾神社は、古くから播磨国造家が奉祀してきたが、慶芳上人が神積寺を開基するに当たり、岩尾神社にも文殊菩薩を祀り、鎮守社とした。明治の神仏分離令により、文殊菩薩は神積寺に移されたのだろう。
岩尾神社は、池田輝政が慶長年間に修造し、慶長十六年(1611年)に落成した。
前殿の彫刻は漫画的なユーモラスを有している。
本殿は三間社神明造で、大きな覆屋に覆われている。
前殿の格子の間から、本殿を観ることが出来る。
本殿脇の獅子と牡丹の襖絵も豪華である。
岩尾神社の石造鳥居と石橋も兵庫県指定文化財である。
慶長十六年作の鳥居である。沓石がなく、柱が直接地中に埋められている。背が低く、柱も細く、古い様式を伝える鳥居である。
鳥居前の石橋は、蔦に覆われて、ほとんど見えなくなっている。
石橋は凝灰岩製で、架橋手法が簡素で古調を帯びていることから、鳥居と同年代の作とされる。
岩尾神社の石橋、鳥居、前殿、拝殿、本殿が、慶長十六年に同時に落成し、そのままどれも欠けずに現代まで伝わっているとしたら、これはこれで尊敬すべきことだ。
岩尾神社は、姫路城天守を手掛けた池田輝政が施主であるが、輝政の隠れた名作かも知れない。
石橋を覆う蔦を取って全貌を見たいと思うが、立ち入り禁止であった。
史跡巡りを始めていなければ、こんな小さな神社は見過ごすところだったが、どんな神社仏閣にもいわれがある。
柳田國男のように、由来を調べて行って、そこから新事実に突き当たるのも面白いかも知れない。
寺院と神社が仲良く並ぶ神積寺と岩尾神社は、神仏習合という日本の優しい信仰の形を残している。
参拝した私も優しい気分になった。