福崎 前編

 兵庫県神崎郡福崎町の辻川地区には、今も古い町並みが残っている。

 その中でも一際広壮な建物は、兵庫県指定文化財の三木家住宅である。

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三木家住宅

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三木家住宅土間口

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玄関

 三木家は、秀吉によって倒された英賀城主三木家の末裔とされている。

 7月11日の姫路市林田町の記事でも、英賀城主の縁者につながる三木家の住宅を紹介したが、英賀城主の縁者は福崎にも流れ着いたようだ。

 こちらの三木家は、英賀城陥落後、飾磨で飾磨津屋という酒屋を営んでいたが、明暦元年(1655年)に、姫路城主の新田開発の呼びかけに応じて、福崎辻川の地に移り住んだ。

 それ以降、三木家は、福崎の大庄屋を務めた。三木家住宅は、大庄屋の遺構として、主屋を始め9棟の建物が現存する貴重な文化財である。

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座敷

 三木家住宅の南側には、姫路藩主を迎える格式高い座敷が連なる。欄間や釘隠し、障子の引き手の意匠が凝っている。

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欄間

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釘隠し

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引き手

 趣味のいい閑雅な造りである。これら座敷は、専ら藩主のために作られたもので、普段はここに住む三木家の当主ですら立ち入らなかった。それほど当時の身分の違いは絶対的であった。

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武者隠し

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裏側

 中の間の違い棚の下の格子の後ろには、隠し引き戸がある。武者隠しになっている。藩主滞在時には、引き戸の裏側には武士が待機することもあっただろう。

 三木家住宅の主屋は、宝永二年(1705年)の建築である。300年に渡って、よくも兵火や災害に遭わずに生き残ったものだ。

 最も奥の座敷は、壁に和紙を張った上品なしつらいの空間である。

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奥座敷の床の間

 この住宅で面白かったのは、電話室である。電話が普及しだした大正時代には、電話は貴重であった。三木家では電話室が特別に作られた。

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電話室

 電話室の硝子には、「三番」と電話番号が書かれている。当時、電話の通話事務を行い、電話番号を割り振っていたのは郵便局であったらしい。三木家は辻川郵便局を建てた家である。その特権を使って、三木家の頭文字である三を電話番号に選んだそうだ。

 当時の福崎町域の電話番号簿を展示していたが、当時は41番までしか電話番号がなかった。

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福崎町域の電話番号簿

 当時電話が引けたのは、役場か会社か裕福な家だけだったのだろう。

 江戸後期の三木家当主、三木通庸、通明、通深は、著名な儒家に学んだ教養人であった。特に通深は、34歳という若さで亡くなったが、早熟の天才であった。

 三木家住宅に、11歳の三木通深が襖に書いたとされる漢詩と墨絵が展示してあったが、とても11歳の子供が書いたとは思えぬ驚愕の作であった。

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三木通深11歳の作

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三木通深11歳の書

 三木家は、近くの儒家であった松岡家と親しかった。明治時代に松岡家に生まれたのが、日本民俗学の祖である柳田國男である。柳田國男の父と三木家当主が仲が良かったので、柳田は11歳の時から1年間三木家に預けられる。そこで柳田は、三木家歴代当主が集めた数万冊の典籍を自由に読む機会を与えられる。柳田の民俗学の基盤となる素養は、この時に出来た。

 普段三木家の者が生活する空間は、藩主が通る座敷と比べ、天井が低く、狭く暗い部屋部屋であった。

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三木家生活空間

 三木家住宅の東隣には、移築された辻川郵便局があった。ペンキで塗られた、いかにも明治を思わせる建物であった。

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辻川郵便局

 三木家住宅から北に行くと、柳田國男の生家がある。柳田が「故郷七十年」で「日本一小さな家」と言った住宅である。

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柳田國男生家

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 それでも四畳半2間、三畳1間の三部屋である。当時としては並みの家ではなかったか。ここから、民俗学の巨人柳田國男を始め、優秀な松岡五兄弟が育ったと思えば、確かに人材の大きさに比べれば小さな家なのかも知れない。

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流し

 柳田國男生家には、流しも残っている。当時は水道もなく、井戸から汲んだ水を桶に入れ、ここで流しながら皿を洗ったのだろう。昔の家事は重労働だった。

 柳田國男生家のすぐ近くに、入館無料の松岡家記念館がある。

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松岡家記念館

 松岡家記念館内部は、写真撮影不可だったので、内部の写真はない。ここは、松岡五兄弟の所縁の品を展示する記念館である。

 幕末の福崎の儒者松岡操の5人の子供は、いずれも優秀で、大成した。

 長男松岡鼎は、東大を卒業して千葉県で開業医となり、郡会議員を務めた。

 三男通泰は、井上家の養子となり、東大を出て眼科医となった。医師をしながら文学を志し、和歌や漢詩を作った。森鷗外と終生の交友を続けた。

 五男國男は、柳田家の養子となった。東大卒業後、農商務省の官僚となったが、東北地方を視察するうちに民俗学的なものに目覚める。文献に偏った歴史研究ではなく、フィールドワークによる民間伝承の収集などが歴史研究において重要であるとの立場に立った。「遠野物語」は今でも名著として読み継がれている。

 七男静雄は海軍兵学校を首席で卒業し、海軍士官となったが、退職後は言語学者として活躍する。

 八男輝男は、松岡映丘と号し、東京美術学校(現東京芸術大学)卒業後、大和絵の研鑽と発展に生涯をかけ、後の日本画壇に多大な影響を与えた。

 五兄弟いずれも優秀でくらくらするが、この中で歴史に残る独自の仕事をしたのは、國男であろう。日本の民間に残る信仰、習慣、伝承、儀礼、行事などを訪ねて全国を歩き、普通の人なら見過ごすようなことに焦点をあて、考証し、新事実を発掘していく柳田の手法は、なかなかに斬新である。

 松岡家には申し訳ないが、松岡家記念館で私が最も感動したのは、尊敬する鷗外の井上通泰宛の自筆書簡が展示してあったことである。

 私の自宅に最も近い鷗外の自筆物は、松岡家記念館にある書簡だろう。いやいや、実は自宅にも鷗外の自筆物があるのだが。(秘密)

 松岡家記念館の裏には、福崎町立神崎郡歴史民俗資料館が建つ。

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福崎町立神崎郡歴史民俗資料館

 この建物は、明治19年に、神東郡、神西郡(後に合併して神崎郡になる)の役所として建設された。玄関部はギリシャ建築様式を取り入れた二段式で、一階部は角柱で、ドリス風柱頭飾、二階部は丸柱でコリント風柱頭飾である。

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 ここも内部は写真撮影不可だったので、写真は撮らなかった。
 館内には、郡の歴史資料が展示してあった。神崎郡歴史民俗資料館には、三木家の蔵書も保管されている。

 人材は国の宝であるとされている。この小さな福崎という町から、明治期に偉大な人材が輩出されたのは、歴史のちょっとした匙加減だろう。

 町の大きさ小ささに関わらず、歴史に大きな痕跡を残す偉人は現れるものだ。