法道仙人により創建された常勝寺は、永保年間(1081~1084年)に火災に遭って焼失した。
その後浄意上人により寺は再建されたが、天正三年(1575年)に明智光秀の攻撃により全山が焼き払われた。
時を経て元禄年間(1688~1704年)に、寺は良海法印により再建された。
常勝寺のある山南町は、播磨との国境に近い。播磨の寺社には、秀吉に焼き払われたところが多いが、国境をまたいで丹波に入ると、このように途端に明智光秀に焼かれた寺院と出会う。
信長が、播磨と丹波の国境で、きっちり秀吉と光秀の担当を分けていたのが、こうして実地踏査をしてみると実感できる。
と言う訳で、今の常勝寺の伽藍は、全て元禄以降に再建された建物である。
石段を登りきり、いよいよ本堂に辿り着く。
本堂は、元禄十年(1697年)に完工したものである。銅板葺きの屋根を戴き、壁や柱は小豆色に塗られている。総欅造りである。
本堂の向拝の下の彫刻は、八代目中井権次橘正胤とその弟子により彫られたものだ。
彫刻だけは、欅以外の材料で造られ、白い木肌のままである。
龍や獅子、麒麟、鳳凰といった霊獣たちの競演だ。非常に細かく彫られている。
本堂に祀られる御本尊は、国指定重要文化財の銅像十一面千手観音立像である。
御本尊は、秘仏となっていて公開されていない。常勝寺のパンフレットに掲載されていた写真を紹介する。
銅像である故、幾たびの火災にも耐えて残ったのだろう。
この観世音菩薩像は、伝説では、法道仙人の念持仏を鋳込んで造ったとされるが、実際は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての作だそうだ。
本堂の西側には、国指定重要文化財の木造薬師如来像を祀る薬師堂がある。
薬師堂は、中井権次による彫刻は施されておらず、地味な造りである。ただ木目の浮き出た厨子が美しい。
厨子の中に祀られている薬師如来像も、パンフレット掲載の写真で紹介する。
この薬師如来像は、檜の寄木造で、鎌倉時代の作らしい。天正の兵火をよく乗り越えたものだ。
本堂の東には鐘楼があり、その奥に権現堂がある。
権現堂は小さな社だが、ここにも彩色された彫刻が施されている。これも中井権次一統の作だろう。
私が常勝寺を訪れた時、雨がぱらつき始めていたが、本堂周辺を参拝していると、段々雨足が強くなってきた。
傘を持っていなかったので、静かな薬師堂の中で、しばし時を過ごした。幸いに雨が弱まったため、石段を下りながら車に戻った。
ところで常勝寺には、「鬼こそ」と呼ばれる儀式が伝わっている。
「鬼こそ」は、毎年2月11日に行われる。法道仙人のお面をつけた童子の後を、赤鬼青鬼の面をつけた4人の鬼が追い、最後は鬼たちは仏具を鳴らされて追い払われる。五穀豊穣、無病息災を祈願する儀式だ。
鬼追い会式は播磨の寺院には多く伝わっているが、丹波では常勝寺にしか伝わっていないという。
どの寺院でも、鬼追い会式はだいたい2月初旬に行われる。春の前触れとなる儀式である。
春が待ち遠しい気持は、昔の人も今の人も変わらないものだ。