洲本城跡のある三熊山から麓に下りて、洲本市千草にある真言宗の寺院、満泉寺に赴いた。
この寺には、延享二年(1309年)の銘のある鰐口があるそうだ。
勿論公開していなかったので、見学は出来なかった。
私がこの寺を訪れた時は、六角堂で住職が法要のための読経を行っていた。
また、境内の奥にて新本堂が建築中であった。
この本堂、建ってしまえば、200年後もここにあるのだろうか。
建築中の新本堂の前に墓地があり、その一角に「水坪の弘法大師地蔵」が祀られていた。
かつて弘法大師が行脚中、満泉寺の裏にある柏原山を通りかかった時、疲れて道端で一休みした。
その時木陰にささやかな清水が湧いているのを目にした。錫杖でそこを掘ると清水は豊富に湧き出でて絶えることがなかった。
その後、弘法大師の掘った湧き水の地は水坪と呼ばれた。湧き水は幾星霜の間、住民の渇きを癒した。
住民は湧き水を掘った弘法大師に感謝し、その地に弘法大師地蔵を祀った。
ある日、満泉寺の住職の夢枕に弘法大師地蔵が立ち、満泉寺への移転を望んだという。
弘法大師が錫杖で突いた場所から温泉や清水が湧き出たという伝承は日本中に残っている。
日本史上、こういう風に尊崇された人物は、弘法大師か行基菩薩くらいしかいない。
弘法大師空海は、古い時代には、まさに庶民のヒーローだったのだろう。
さて、満泉寺から南下し、過去には淡路国の政庁のあった由良の町に向かった。
由良の町に入り、先ずは洲本市由良3丁目にある由良湊神社を訪れた。
由良湊神社の祭神は、祓戸(はらえど)大神と呼ばれる速秋津日古(はやあきつひこ)神と速秋津比売(はやあきつひめ)神と、第15代応神天皇の品陀別(ほむだわけ)尊である。
祓戸大神は、黄泉の国から戻った伊弉諾尊が海で禊をした時に生まれた神様である。全ての穢れを祓う神様として、「大祓詞(おおはらえことば)」に出てくる。
紀淡海峡の側の由良に祀られるに相応しい神様だ。
由良湊神社は、平安時代の「延喜式」にも記載のある古社である。
慶長十八年(1613年)に、池田忠雄が由良成山城を築いた際、品陀別尊を祀る八幡宮を再興し、氏神とした。
万治元年(1658年)、徳島藩が八幡宮境内に藩邸を築いた際、八幡宮を由良湊神社境内に移した。
明治3年に、由良湊神社と八幡宮は合祀されて新しい社殿が建てられた。
今の社殿は、色彩鮮やかだが、鉄筋コンクリート製の社殿である。
由良湊神社で毎年2月に行われる「ねりこ祭り」では、数え年3歳の子供(ねり子)が神輿と共に約700メートル南にある恵比須神社内の若宮まで練り歩く。
いつしか親がねり子をかついで一番鈴を目指して激しく競争するようになったというが、近年ではその光景もみられなくなったという。
由良湊神社のすぐ西隣には、真言宗の寺院、輝江山心蓮寺がある。
心蓮寺の山門は、由良にあった徳島藩藩邸の門を移築したものである。
心蓮寺山門は、由良に藩邸があったことを伝える唯一の遺構だろう。
心蓮寺山門の前には、薬師堂があり、金銅製の薬師如来像や、閻魔大王像などが安置されている。
仏教に取り入れられた民間信仰では、初七日から三十三回忌まで、死後十三回行われる法事で、不動明王から虚空蔵菩薩までの十三仏が、それぞれの法事の際に裁判官になって、死者の生前の行いを裁定し、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人界、天界のどの世界に行くかを決めているという。
これが中国で道教の十王信仰と習合した。閻魔大王は、五七日の法事の担当の地蔵菩薩の化身とされている。
これが本当だとすれば、人の意識は永久に続くことになるが、これは何とも面倒でしんどいことである。
釈迦は、死後の世界のことは一切説いていない。これが本来の仏教の教えである。釈迦は、苦に満ちたこの世界には生まれてこないのが一番いいと説いた。
だがこの世界に生まれてきた以上は、人としての務めを果たさなければならないだろう。しかし、その務めの内容を死後誰かに裁定されて、また生まれ変わらされ、務めが永久に続くことはしんどいことである。
一度しかない命だからこそ、人は意地を持って自らの務めを果たすことが出来るような気がする。