岡山県和気郡和気町吉田の集落を抜けると、国指定史跡である津田永忠墓がある。
津田永忠は、岡山藩主初代池田光政と2代目綱政に仕えた名臣である。
永忠は、寛永十七年(1640年)に岡山に生まれた。14歳で藩主光政の側児小姓となる。宝永元年(1704年)に隠居して閑谷に隠棲するまで、約50年に渡って池田家に仕えることとなる。宝永四年(1707年)、永忠は68歳で亡くなる。
永忠は実務能力が高く、光政、綱政の絶大な信頼を得、大横目、学校奉行、郡代などを務める。特に土木事業に非凡な才能を見せた。
永忠が手掛けた土木事業の主なものとして、池田家和意谷墓所、閑谷学校、後楽園、吉備津彦神社、曹源寺、倉田、幸島、沖の新田開発などがある。
今や岡山の代表的史跡となっているものが多い。岡山平野の南側には、干拓地が広がっているが、これも永忠が手掛けたものだ。
永忠は、権勢名望を誇らず、隠居後家禄及び属土を還して、閑谷の墾田270余石をもって静かに生活した。
永忠の墓は、小さな土饅頭の前にささやかな墓石が建つだけである。この慎ましさが、逆に永忠の偉大さを表しているように思える。
JR吉永駅前付近から国道404号線を北上した岡山県備前市吉永町和意谷に、その永忠が築造を担当した、国指定史跡池田家和意谷墓所がある。
津田永忠墓から和意谷墓所に行く途中、雷雨が降ってきた。凄まじい雨であった。
和意谷墓所入り口まで来たが、降雨のため、後日参拝することにした。
さて、晴れた日に再びやってきた。
池田家和意谷墓所は、岡山藩主池田家とその縁者の墓所である。一のお山から七のお山まで、計7か所の墓所がある。
池田家の菩提寺であった京都花園妙心寺護国院が炎上したことを機に、池田光政は、池田家の墓所を備前に築こうと思いたち、寛文五年(1665年)、津田永忠に墓所選定を命じた。
永忠は、和気郡の和意谷の地を候補地に上げた。自ら検分した光政が、この地を改葬地に決定し、永忠に墓地造営を命じた。
寛文九年(1669年)に墓域は完成した。
入り口から1キロほど歩いて到達したのは、池田光政夫妻の墓である三のお山である。
池田光政は、水戸藩の水戸光圀、会津藩の保科正之と並んで、天下の三賢侯と称された。
光政は、儒教の仁政を実現しようと試み、熊沢蕃山、津田永忠といった名臣を登用し、新田開発、学問の奨励を進めた。自らも質素倹約に努め、藩が財政難になっても、百姓を困窮させないため、年貢を上げようとしなかった。学問上の師であった熊沢蕃山の、武士と農民を平等に見る思想の影響を受けていたのだろう。
また、学問熱心な光政は、藩士、庶民を教育するため、日本初の庶民のための学校・閑谷学校を開校する。
儒教の本国中国で、春秋時代に孔子が魯の国において実現しようとした仁政を、孔子の時代から約2200年後に、日本の岡山藩が実現しようとしたのだ。
光政没後の岡山藩は、光政の政治を手本として、その後も安定した治世を幕末まで続けた。
光政は、姫路城天守を築いた池田輝政の孫であるが、光政の妻は、姫路藩の本多忠刻とその妻千姫の娘・勝子である。
千姫というと、どうしても悲劇的な女性というイメージで見てしまうが、娘が稀代の名君に嫁いだことで、千姫の気持ちも晴れたのではないか。
次に参拝した一のお山は、光政の祖父、輝政の墓である。
輝政の墓石は、亀趺(きふ)という瑞獣の上に建っている。
輝政は、織田家家臣だった池田恒興の子である。本能寺の変後は秀吉に仕え、小牧・長久手の戦い、紀州攻め、九州征伐、小田原北条攻め等で勲功を上げた。関ヶ原の合戦の際は、家康に味方し、戦後家康から姫路52万石を与えられた。輝政は、家康の娘督姫を妻に迎え、外様大名としては破格の扱いを受けた。池田一族は岡山、鳥取、洲本も治め、その総石高は100万石を超え、輝政は「西国の将軍」と称された。
あれほど豪華な姫路城天守を築いても、幕府からは何のお咎めもなかった。おそらく幕府は、西国の抑えとして、要地姫路に輝政が広壮な城を築くことを許可したのだろう。
次の二のお山は、輝政の子、光政の父、池田利隆夫妻の墓である。
利隆は、幼い異母弟池田忠継が岡山藩主となると、執政代行として実質的に藩政を行った。利隆の子・光政が次の岡山藩主となり、以降は光政の子孫が岡山藩主として存続することになる。
四のお山は、岡山藩池田家第8代藩主慶政夫妻の墓である。
池田慶政は、江戸時代後期の藩主である。明治維新前の文久三年(1863年)に家督を茂政に譲った。明治26年に亡くなって、この地に葬られた。
五のお山は、慶政の婿養子となった、第9代藩主池田茂政夫妻の墓である。
茂政は、徳川斉昭の子で、徳川第15代将軍慶喜の弟である。池田家に婿養子に入り、岡山藩最後の藩主となる。幕末には官軍側に立つが、朝廷の慶喜追討の勅命には流石に従えず、引退した。明治32年に亡くなり、この地に葬られた。
六のお山には、池田輝政の六男、池田輝興が葬られている。輝興は、赤穂藩主を務めていたが、正保二年(1645年)に突如発狂し、正室と侍女数名を斬り殺すという事件を起こす。元禄赤穂事件と区別して、正保赤穂事件と呼ばれている。
輝興は、身柄を甥の光政に預けられる。六のお山には、山崎藩2代目藩主池田政元の墓など、岡山藩以外の池田家縁者の墓が並んでいる。
七のお山は、一から六のお山からは離れた場所にある。
ここには、池田利隆の弟や、池田光政の弟など、庶子の墓が並んでいる。仁政を実現しようとした光政も、庶子は区別したのだろうか。
和意谷墓所は、かなり辺鄙な場所にある。すぐ近くに陶芸村があるが、この墓所に観光客が来ることは稀だろうと思う。
池田光政と津田永忠がなぜこの地に墓所を築いたのかは分からない。ただ、一族の静かな眠りを優先したと考えれば、ここは相応しい場所である。
墓域を歩きながら、静かに池田家の治績に思いを馳せた。