姫路市夢前(ゆめさき)町は、かつては飾磨郡夢前町という独立した自治体であった。平成18年3月に姫路市に合併され、消滅した。今日は夢前町の地味な史跡を紹介する。
夢前町は、南北に細長い。姫路市夢前町莇野(あぞうの)に、菅生ダムというダムがある。ダムに至る道は、走り屋が週末の夜に走りに来そうな峠道だが、その途中に山中に入る道が突然現れる。こんな道を上がってしまったら、生きて帰れるのかと不安になるような道だ。
道の先にあるのは、水尾山補陀洛寺である。補陀洛寺は、書写山圓教寺を開山した性空上人が天禄二年(971年)に開山したと伝えられる。
補陀洛寺は、文明四年(1471年)、兵火に罹り、寺堂は勿論、寺宝日記類も焼失した。
享保二年(1717年)に、快翁和尚が至って、補陀洛寺を中興した。
補陀洛寺は、Googleマップには載っているが、私が普段使うロードマップには載っていなかった。それぐらい目立たない寺である。
この寺は、源平合戦の際、一の谷の戦で敗れた平教経が匿われた寺である。播州には、平家の落ち武者が住み着いた集落が多数あるが、ここも平家ゆかりの地である。
教経は、平清盛の甥である。補陀洛寺で匿われた教経は、庫裏の前の広場に住居をあてがわれた。教経の役職は能登守だったため、能登殿屋敷と呼ばれたという。
教経の家来も、地元民の助けを得て住み着き、能登から妻子を呼ぶ者もあったという。
中には、能登から、北陸特有の帽子を被った地蔵を持ってきた者もいた。被帽地蔵として、今も祀られている。
拝んだ後、失礼して拝見すると、確かに帽を被っていた。
庫裏には表札がかかっていて、現住職が住んでいるものと思われる。庫裏の前の広場は、能登殿屋敷があった場所である。
平家の末裔たちの血は、今も地元に伝えられているのだろうか。
観音堂は、桃山時代の建築と伝えられる。参拝客は私しかいなかった。
さて、夢前川沿いを北上し、夢前町山之内に入る。夢前町の北端に聳える雪彦山(せっぴこざん)が見えてくる。
新潟県の弥彦山、福岡県の英彦山と並んで日本三彦山の一つである。
暗めの写真になってしまったが、実物は山水画の世界もかくやと思われる、断崖絶壁に松が生えた迫力ある山である。
かつては修験道の行場であったが、今はロッククライミングの絶好のポイントとして愛好する登山家も多い。
雪彦山から南下して、塩田温泉を通過し、置塩神社に至った。
置塩神社は、実は戦後に出来た神社である。
寛延二年(1749年)、姫路藩では、不作と藩の悪政が重なり、藩は財政難に陥った。
姫路藩は、年貢米の徴収を厳しくした。農民はたびたび年貢米の減免を訴えたが、聞き入れられなかった。
寛延二年1月28日、置塩郷の農民は、日ごろから人望ある滑原(なめら)甚兵衛、塩田利兵衛を中心に立ち上がった。一万余人の一揆勢は、藩兵を蹴散らしながら、大庄屋、庄屋、御用商人の屋敷を打ち壊し、姫路城に迫った。
しかし、2月2日、姫路藩の依頼を受けた船場本徳寺の説得により、一揆勢は解散する。一揆勢は、東本願寺派の一向宗門徒だったのだろう。
その後の一揆首謀者を待っていたのは、幕府による苛酷な取り調べと刑罰だった。甚兵衛は寛延三年に姫路の市川河原で磔、利兵衛は獄門となった。その遺骸は返却されず、法要も行われなかった。
しかし、彼らの行為は無駄ではなかった。幕府は、姫路藩主松平朝矩の能力を見限り、藩主を上野国前橋に転封した。
甚兵衛、利兵衛の33回忌に、地元民は二人の供養碑を作った。
それでも長い間、寛延の播磨一揆は、地元民からも忘れ去られていた。
その状況を見かねた地元の有志によって、昭和29年に、「寛延義民」である一揆首謀者を祀る置塩神社が建立された。
神社から数百メートル北のローソンの裏には、滑原甚兵衛の墓がある。
私は場所が分からず暫くうろうろしたが、勇を鼓して畑仕事をしている年配の女性に尋ねた。女性は、「甚兵衛さんはあっち。利兵衛さんはあっち」と親切に教えてくれた。
甚兵衛の墓には、没年である「寛延三庚午年」と彫られている。
また、置塩神社のすぐ北側には、塩田利兵衛の墓がある。
現代では、民衆は、選挙やデモやメディアを通して政治的意思表示を行う事ができる。しかし、江戸時代の民衆に出来た意思表示は、命を賭した一揆や打ち壊しだけであった。それを思えば、先人たちの苦労によって、世の中から段々理不尽なことは減ってきていると言える。
置塩神社のある丘の南には、かつて法恩寺という寺があった。昭和40年の水害で、寺は流出してしまった。
今は、墓石群が残るばかりである。
墓石群の中でも、右端の石造無縫塔は、永和四年(1378年)と刻まれている。室町時代の貴重な石造美術である。
今日の史跡巡りは、無名で地味な場所ばかりだったが、そんな場所を訪れても、初めて知って感動することがある。
平教経の伝承も、寛延義民のことも、地元民ですら知る者は少ないだろう。しかし忘れかけられた物事の中にも、過去の人々が苦労した足跡は消えずに残っている。足跡を訪ねるだけでも、いいものではないか。