置塩城跡から西に進み、峠を越えると、姫路市夢前町寺という地域に出る。
書写山圓教寺を開いた性空上人が、長保二年(1000年)にこの地に隠棲し、草庵を作った。
長保四年(1002年)、性空上人を慕う花山法皇が行幸し、播磨大掾巨智延昌に命じて諸堂を建立させた。これが、弥勒寺の開山である。
弥勒寺は、それほど大きな寺ではない。しかし、小さいながらも私にとっては忘れがたい寺であった。
国指定重要文化財である本堂は、康暦二年(1380年)に赤松義則が再建したものである。
赤松義則は、室町幕府の四職の1人として、幕政の中枢に入り、播磨、美作、備前の守護として、赤松氏が最も安定した時代を担った人物である。
私が何より興奮したのは、本堂の軒庇にある蟇股彫刻に、赤松家の家紋である、二つ両引きと三巴紋を発見した時である。
あった!あった!あった!と叫びたくなった。建築時に、施主の赤松氏が、証を残したのだろう。
書写山圓教寺の護法堂にも、赤松家の家紋は彫られているが、圓教寺護法堂が建てられたのは、永禄二年(1559年)であり、しかも赤松家の分家である龍野赤松家の赤松政秀が建てたものである。
弥勒寺本堂は、赤松惣家が建てたものであり、建築年代も1380年という古さである。
現存する赤松家が建立した建物の中では、最古だろう。ネット上を探したが、弥勒寺本堂に赤松家家紋が彫られていることを指摘する記事はなかった。赤松ファンからすれば、至宝といってよい建物だ。
色彩が剥落しているが、完成したころは、朱色が鮮やかな格天井だったろう。
その下に鎮座する弥勒仏と両脇侍仏は、国指定重要文化財である。長保元年(999年)、安鎮の作と言われる。
平安時代中期の彫刻の特徴がよく出ているらしい。
本堂裏にある護法堂は、宝永八年(1711年)の建立で、乙天と若天という、寺の守護神を祀る。
薄い板を重ねた杮葺きが見事だ。
護法堂の隣には、嘉暦二年(1327年)作成の供養塔がある。
鎌倉時代の石造物だ。
開山堂は、慶長十六年(1611年)に建造された。性空上人を祀るお堂だ。
その他に、日本一の大きさの布袋さんの石造があったが、これは私の趣味ではなかったので、写真には納めなかった。
小ぶりな寺だが、私にとっては、弥勒寺本堂は気分が上がる建物であった。赤松家の軌跡をここでも窺うことが出来た。
考えてみれば、鎌倉幕府追討の令旨を出した大塔宮護良親王は、比叡山延暦寺の貫主である天台座主であった。赤松円心は、令旨が出される前から、三男則祐を延暦寺に派遣し、終始護良親王に付き従わせていた。護良親王の鎌倉幕府追討の令旨を円心の元に届けたのは則祐である。円心は、鎌倉幕府を打倒して、家名を上げ、領地を広げる好機を窺っていたのだろう。
弥勒寺本堂を再建した赤松義則は、則祐の子である。そう考えれば、赤松家と天台宗の縁は深い。
時代を動かした天台宗と赤松家の絆をここに見た気がする。