生石神社 覚正寺

 兵庫県高砂市阿弥陀町生石にある生石(おうしこ)神社には、九州霧島高千穂峰の天之逆鉾、奥州塩釜神社の塩釜と並ぶ「日本三奇」の一つ、「石の宝殿」がある。

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生石神社鳥居

 大穴牟遅(おおなむち)命と少毘古名(すくなひこな)命の二柱の神が、国土経営のために出雲から播磨に出てきて、この地に至り、国土を鎮めるに相応しい石の宮殿を造ることにした。

 一夜の間に工事を進めたが、途中阿賀神の反乱の報告を受け、工事を途中で放り出して反乱の鎮定に向かった。

 反乱は鎮定されたが、石の宮殿は未完のまま残された。

 これが、今に伝わる石の宝殿とされている。二神は、この石に籠り、未来永劫国を鎮めんと言明したという。別名鎮(しづ)の岩室と呼ばれる。

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神門

 第10代崇神天皇の代に、国に悪疫が流行した。天皇の夢枕に、大穴牟遅命と少毘古名命が立ち、「吾が霊を斎き祭らば天下は泰平なるべし」と告げた。崇神天皇は、石の宝殿のあるこの場所に生石神社を建て、二神を祭った。これが生石神社の創建である。

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生石神社社殿

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拝殿

 天正七年(1579年)、秀吉は、神吉城を攻めるために生石神社を陣所にしようとした。時の生石神社の宮司は、神吉城主の弟だったため、その申し出を断った。激怒した秀吉は、生石神社を焼き払った。そのため、神社に伝わる遺物はほとんど灰になってしまった。 

 唯一梵鐘だけは持ち去られ、後日関ケ原の合戦で大谷吉継が陣鐘として使用したという。合戦後、梵鐘を手に入れた徳川方は、敵ながら見事な武将だった吉継の霊を慰めるため、今の岐阜県大垣市安楽寺に梵鐘を寄付し、朝夕撞かせたという。梵鐘は今も安楽寺に伝わり、大垣市の指定文化財になっている。

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大穴牟遅命の神座

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少毘古名命の神座

 本殿の真ん中は、通路になっていて、その先に石の宝殿が鎮座している。通路の左右に、祭神大穴牟遅命と少毘古名命が祀られている。

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通路の先の石の宝殿

 石の宝殿の前には、賽銭箱が置かれているが、赤松惣家の家紋が貼付されている。賽銭箱自体は新しいが、赤松惣家の家紋は、代々の賽銭箱に受け継がれてきたものだろう。赤松家と生石神社の関係は、よく分からない。

 石の宝殿を囲む空間が狭いので、写真の中に巨大な石の宝殿は収まりきらない。

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 石の宝殿は、池の上に浮いているように見えるが、実は下面は池底とつながっている。

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 この池水は、いかなる旱魃の時も涸れたことのない霊水らしい。

 石の宝殿の背面には突起物がある。

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背面の突起物

 まるで昔のブラウン管テレビのような形をしている。

 石の宝殿を含む生石神社の裏は、岩山になっている。岩山を登って、上から石の宝殿を見下ろすことができる。

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 こうして上から見ると、どこかで石の宝殿を造ってここまで運んだのではなくて、岩山をどんどん削っていって、石の宝殿を削り出したことが分かる。

 それにしても、この石造物は一体何なんだという思いが消えることはない。いつ誰が何のために造ったかは、結局分かっていない。

 「播磨国風土記」には、聖徳太子の時代に物部守屋が造ったと書いているらしい。「萬葉集」巻三にも、「大なむち少彦名のいましけむしづのいわやは幾代へぬらむ」という歌がある。少なくとも奈良時代には、石の宝殿は遥か昔から伝わるものと認識されていたようだ。

 生石神社の裏の岩山は、観濤処と呼ばれている。登って周りを見れば、素晴らしい眺望である。

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 山頂には、大正天皇行幸の石碑が建っている。

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大正天皇行幸碑と背後の高御座山

 この岩山自体が、巨大な岩石の一塊である。石の宝殿を造る時に削り出された石屑は、近くにある高御座山(たかみくら)の山頂に捨てられたと言われている。上の写真の石碑の左側に聳える山が高御座山である。

 石の宝殿の南側は、竜山石の産地であり、観濤処からも石切場を見下ろすことが出来る。

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石切場

 生石神社の麓にある高砂市教育センター前には、天磐舟と呼ばれる舟形石棺の蓋石がある。

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舟形石棺蓋石

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 生石神社の社伝では、大穴牟遅命と少毘古名命が乗ってきた天磐舟とされている。実際のところは、5世紀末から6世紀初頭に造られた家形石棺の蓋である。

 さて、奇怪な石造物を観た後で、今度は江戸時代の徹底した合理主義者、山片蟠桃(やまがたばんとう)の墓のある覚正寺(浄土真宗)に行く。高砂市米田町神爪(かづめ)5丁目にある。

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覚正寺

 山片蟠桃は、寛延元年(1748年)に、神爪村に生まれた。本名長谷川有躬(ありみ)。大坂の豪商升屋の別家を相続し、本家の番頭として豪腕を振るった。その功績が認められ、升屋の親類並みの扱いを受け、山片芳秀に改姓した。蟠桃はその号である。

 山片蟠桃は商売の傍ら学問にも熱心に打ち込み、大坂にある学問所懐徳堂で中井竹山、履軒に儒学を、麻田剛立天文学を学んだという。又蘭学にも関心を示した。

 山片蟠桃は、徹底した合理主義者であった。20年の歳月をかけて完成させた著作「夢の代」には、地動説に基づく宇宙観、万有引力説、霊魂の存在を否定した無鬼論、日本の神話を作り話と否定する神代史批判説が書かれているらしい。

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山片蟠桃の墓

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 山片蟠桃は、晩年を生まれ故郷の神爪村で過ごしたと伝わっている。元々蟠桃の墓は国道2号線より北側の神爪墓地にあったが、墓石の風化を惜しんだ地元の有志が、平成10年に墓を覚正寺に移し、覆屋を建てたという。墓石には蟠桃の戒名である釋宗文の文字が彫られている。

 山片蟠桃は、生まれ故郷の近くにある石の宝殿のことは知っていたことだろう。合理主義者の蟠桃は、石の宝殿にまつわる言い伝えを聞いても、一笑に付したことであろう。

 神話のような想像力を膨らませる話も面白いが、徹底した合理主義的世界観も捨てがたい。しかし、どちらか一方だけになると、世の中はつまらなくなるであろう。人間同士の考え方にも、振れ幅があった方がいいように思う。