見野古墳群、宮山古墳

 最近、姫路のジュンク堂書店に行き、エレベーターを上がって正面の郷土史のコーナーを眺めると、河合寸翁という人に関する本が目に付くようになった。

 河合寸翁は、姫路藩酒井家の家老である。姫路藩領内の産業を振興し、藩の財政を立て直した人物である。今や、郷土の偉人として脚光を浴びている。

 先日の置塩神社の記事で紹介したように、寛延の播磨一揆で幕府から更迭された松平家に代わって、姫路藩主となったのが酒井家である。酒井家は、寛延二年(1749年)から幕末まで、姫路藩主を務める。

 河合寸翁は、酒井家4代に仕えた。藩士だけでなく農民にも質素倹約を勧め、飢饉に備えた食糧貯蔵施設の義民倉を作り、特産品の生産を奨励して藩の収入を増やし、藩の財政を立て直した。

 寸翁は、藩主から功績を認められ、姫路市奥山の地に土地を与えられた。

 寸翁は、奥山を仁寿山と改名し、その麓に仁寿山校という藩校を建てた。仁寿山校は、文政五年(1822年)に開校した。

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仁寿山校跡説明板

 寸翁は、頼山陽などの当代一級の学者を講師として呼び、国学、漢学、医学を藩士に学ばせた。ここで教育を受けた者たちは、後々勤王運動に突き進むことになる。

 寸翁の死後、仁寿山校は廃校となり、姫路城下の藩校好古堂に吸収された。今は石碑と井戸と土塀が残るばかりである。

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仁寿山校跡石碑

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 仁寿山校出身の学者亀山雲平は、幕末の姫路城無血開城に道を開いた人である。寛延義民の一揆から、歴史がつながっているように感じる。

 仁寿山校跡から、山を迂回して、見野古墳群に至る。

 見野古墳群は、古墳時代末期(7世紀半ば)の古墳群である。特に、夫婦塚と呼ばれる6号墳と、姫路の石舞台と呼ばれる10号墳が目立つ。

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6号墳

 6号墳は、1つの古墳に石室が2つあるという、全国的にも珍しい形の古墳である。

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6号墳石室

 6号墳からは、鉄刀や、轡が出土している。轡は、馬の口から顔に装着する道具である。被葬者は、騎馬を行った武者だったのだろう。発掘された遺物は、姫路市埋蔵文化財センターで展示されている。

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6号墳出土の轡の金具

 古墳時代に日本に導入された乗馬という文化というか技術は、画期的なものだったろう。日本にとっても、明治の鉄道や自動車の導入に匹敵する出来事だろう。当時、馬に乗った人は、相当身分の高い人だったのではないか。

 姫路の石舞台と呼ばれる10号墳は、大きな石室が長年の風化作用によって露出して今の姿になった。

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10号墳

 10号墳は、見野古墳群の中で最大の石室を有する。

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 築造は西暦650年ころと見られ、見野地方最大の有力者の墓だろう。それにしても、よくこんな巨大な石を調達してきたものだと感心する。この古墳を見て「格好いい」と感じた。古墳を見て格好いいと思い始めたら、病気だろうか。

 見野古墳群から北上すると、宮山古墳がある。

 宮山古墳は、5世紀後半に築かれた直径約30メートルの円墳である。

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宮山古墳の傾斜

 宮山古墳の中央からは、3つの竪穴式石室が見つかった。中からは、刀、鏡、装身具などが発見された。中でも、金環頭大刀や、二対の垂飾付耳飾は、全国的にも珍しい貴重な出土品である。

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宮山古墳の中心部

 宮山古墳の中央の木で囲まれたところが、石室のあった場所であろうか。

 宮山古墳の出土品は、姫路市埋蔵文化財センターにて保存されている。

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姫路市埋蔵文化財センター

 宮山古墳出土品は、国指定重要文化財であるが、同センターで厳重に保管しており、展示はされていない。

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宮山古墳出土品の説明板

 同センターには、姫路市内の古墳や廃寺から発掘された品物が展示されている。

 展示されていた弥生式土器の壺や甕は、下に黒く焦げた部分があり、生活に使われていたことが実感できる。

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姫路出土の弥生式土器

 また、見野の長塚古墳から発掘された須恵器の装飾付壺は、なかなかいい状態で出土したようだ。

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須恵器 装飾付壺

 須恵器は同センターで綺麗に修復されたのだろう。

 同センターの作業室では、発掘された土器や須恵器の修復作業が行われていた。

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姫路市埋蔵文化財センター作業室

 ここでの時間のかかる地道な作業から、古代史への扉が開かれるのだろう。

 古墳や古代遺跡を訪れると、盛られた土や大きな石を見ることになるが、土や石は何も語らない。

 しかし、古墳に佇んで耳を澄ますと、薄皮一枚隔てたすぐ向こう側に、生活する古代人がいるように感じる。