姫路市安富町は、以前は宍粟(しそう)郡安富町という独立した自治体だった。
平成18年3月に、安富町は姫路市と合併した。安富町以外の宍粟郡の町は、その1年前に合併して宍粟市となっていた。安富町が姫路市と合併した時に、奈良時代に編纂された「播磨国風土記」にも記載されている歴史的地名、宍粟郡は消滅した。
今は姫路市の一部となった安富町だが、位置は姫路市の北西部になる。ここにも、ところどころに史跡がある。
まず訪れたのは、姫路市安富町安志にある、光久寺である。
光久寺の本尊、不動明王立像は、国指定重要文化財である。この不動明王、小野篁(おののたかむら、802~853年)が彫ったものと伝えられている。小野篁は、平安時代初期の官僚で、当時有数の漢詩人であった。
光久寺は、安志藩主小笠原家の祈願所である。小笠原家の祖先の加賀美遠光が、宮中の怪異を鳴弦の術で鎮めた恩賞として、高倉天皇から賜った禁裏守護の尊像が、この不動明王立像だとされている。
以後、小笠原家は領地が移転するたびに、不動明王を祀るための光久寺を建てた。小笠原家の最後の領地、安志藩領に建てられた光久寺が、ここである。今の光久寺は、真言宗醍醐寺派に属する。
光久寺には、かつて護摩堂という立派な建物があったが、平成22年に火災で焼失してしまった。
説明板に、ありし日の護摩堂の写真が載っている。
この時、不動明王立像は焼けなかった。不動明王立像は、護摩堂奥に建つ収蔵庫にしまわれている。今の光久寺には、住職はおらず、地元の有志が寺を管理している。
不動明王立像は、非公開なので拝観できなかったが、代わりに姫路市のホームページで公開されている写真を掲載する。
独特の力強さを感じる像だ。小野篁が彫った霊仏というのも頷ける。小野篁自体が、昼は宮廷で官吏として働き、夜は閻魔大王の補佐をしていたという伝説が残る人物である。なかなかの反骨漢で知られている。
案内板を読むと、光久寺の東隣に安志藩の陣屋が建っていたらしい。今は、草の生えるただの空き地である。
さて、光久寺から少し北に行くと、天台宗の今念寺がある。
この寺は、弘安三年(1280年)の開創である。弘安三年と言えば、弘安四年のモンゴル帝国軍の二度目の襲来(弘安の役)の前年である。弘安二年には、モンゴルからの使いを鎌倉幕府が斬り捨て、徹底抗戦の意思を示した。日本中が、蒙古軍の再度の襲来があることを予期し、固唾を飲んでいたころである。
境内には、「造立願主弘安三年庚辰二月日沙弥成仏」と彫られた石造五重塔がある。
今から739年前に石に彫られた字が、こんなにはっきりと残っているのに感動した。人は昔から生きているんだなあと実感する。
今念寺から車で北上すると、千年家と呼ばれる旧古井家住宅がある。
古井家住宅は、室町時代末期に建てられたとされる、当時の農民の家である。家構えからして、当時の長百姓の家ではなかったかと言われている。
民家としては、全国で1,2を争う古い遺構である。江戸時代には、既に千年家と呼ばれ、昔から伝わる古い家であると認識されていた。国指定重要文化財である。
寺院や神社などは、古い建物が残っていたりするが、一般の民家はすぐに取り壊されてしまうので、現代になかなか残っていない。
生憎私が訪れた日は平日だったので、建物内部は公開されていなかった。私は10年前に古井家住宅を訪れ、内部を見学したが、床板や柱が手斧で鎌倉彫のように削られて仕上げられており、こんなに簡素で美しい室内装飾はないと感じたものだ。写真が見せられなくて残念である。
有年の遺跡の記事で、古墳時代の民家のことを書いたが、今、室町時代の民家の実物を見ることができた。古井家住宅より古い民家は日本には無いだろうが、再現されたものでいいから、鎌倉、平安、奈良、白鳳、飛鳥時代の民家がどんな様子だったか見たいものだ。
古井家住宅には、壁や窓や縁側があるが、日本の平均的な農民が、竪穴式住居から、壁や窓のある家に住み始めたのがいつ頃なのか、そのミッシングリングを知りたいものだ。
これからの長い史跡巡りの中で、そんな建物に巡り合えるだろうか。