観音寺の本堂は、天正四年(1576年)の兵火で焼けた後、天正七年(1579年)に再建されたが、その後大破した。
安永四年(1775年)ころから大破した本堂の再建が計画された。天明四年(1784年)に再建工事が始まり、寛政七年(1795年)に完成した。
本堂は、桁行五間、梁間五間の広壮な木造建築物で、大工は備前国上山田村の太郎兵衛であるという。
太郎兵衛は、以前紹介した福知山市内の天寧寺開山堂、薬師堂も手掛けた。
正面の戸は、格子状になっており、格子の中に達磨さんが置いてある。
なぜこんなに沢山の達磨さんが置いてあるのか分からない。
本堂内部は、内陣と外陣の間に柱と欄間がある。この欄間は、天保四年(1833年)に嵌められたものである。
丹波の彫物師中井権次橘正貞の作である。
豪壮な龍と獅子の彫刻である。中井権次一統の欄間の彫刻は、あまり見たことがない。
観音寺には、寺宝として、絹本著色千手千眼観世音菩薩像と絹本墨画淡彩不動明王像が伝わっている。いずれも福知山市指定文化財である。
絹本著色千手千眼観世音菩薩像は、観音寺本尊の御影と言われ、南北朝時代の至徳三年(1384年)に奉献された。
また、絹本墨画淡彩不動明王像は、鎌倉時代末期から南北朝時代を生きた臨済宗の僧侶、妙沢が書いたものとされている。
光背の火炎や唇、羂索などに朱が入っている。
本堂の前には、観音寺の寺宝である9世紀前半の不動明王立像を模した炎髪不動明王立像が建っている。
9世紀前半の不動明王像は、日本では最古級であろう。9世紀前半は、弘法大師空海が日本に密教を伝え、不動明王などの密教の仏像を請来した時代である。
密教伝来期の不動明王像が、この寺に伝わったその由来が知りたいものだ。
本堂に向かって左には、寛政元年(1789年)に建築された鐘楼がある。
鐘楼は、現在の本堂と同時期に建てられたものだ。京都府指定文化財である。
鐘楼の奥には、観音寺を開山した法道仙人の石像がある。
日本有数の石彫家、長岡和慶氏の作であるらしい。
右手に法華経、左手に馬頭剣の杖を持つ像である。インドから紫雲に乗って日本にやってきて、丹波や播磨に仏教を弘めた。
馬頭剣は、今も観音寺に伝来しているという。
法道仙人が実際に観音寺を開いたかどうかは、もはや伝説の靄の中の話である。
しかし、仏教を日本に広める志を持って日本にやってきた法道仙人が、この地にやってきたと思った方が、この寺の荘厳な雰囲気に相応しいと感じる。