補陀落山観音寺 前編

 浦嶋神社から東に走り、福知山市綾部市の境界付近にある真言宗の寺院、補陀落山観音寺に赴いた。

観音寺の案内図

 観音寺の創建は、養老四年(720年)で、開基は法道仙人と伝わる。

 当地を訪れた法道仙人が、一霊木から十一面千手千限観世音菩薩立像を刻んで草堂に安置したのが寺の始まりだという。

 法道仙人が開創した寺院は、丹波や播磨に分布しているが、いずれも大化年間(645~650年)に開創されたという寺伝を持つ。

 養老四年というのは、法道仙人が活躍した時代からはかなり後になる。

 平安時代初期の9世紀には、塔頭旧大聖院の本尊として、寺宝の不動明王立像が祀られていたことが分かっている。

不動明王立像

 不動明王立像は、国指定重要文化財で、現在は博物館に寄託されている。

 応和元年(961年)に当地を巡錫した念仏者の空也上人により、七堂伽藍が整備され、名実ともに観音霊場たるに相応しい体面を備えるに至った。

空也上人の供養塔

 観音寺が最盛期を迎えたのは、鎌倉時代で、執権北条時頼、貞時らの厚い庇護を受け、25余坊が軒を並べた。

 室町時代には、丹波守護の細川政元、澄元、高国の庇護を受けた。

総門

総門の裏側

 観音寺の境内の北側に、入口の総門がある。この総門は、昭和4年まで、現在仁王門がある場所に建っていて、名称も中門と呼ばれていた。

 昭和4年に仁王門を再建することになり、旧仁王門があった現在地に中門が移り、総門と名称を変えた。

 総門から入って歩くと、昭和に入って再建された仁王門が見えてくる。

仁王門

 旧仁王門は、大永四年(1524年)に丹波守護の細川高国によって再建された。

 天正四年(1576年)の明智光秀丹波攻めに際し、兵火により観音寺の全山が焼失したが、仁王門は焼失を免れた。

 その後、仁王門は観音寺随一の古建築として残っていたが、明治29年8月の大暴風雨で、仁王門の側にあった欅の大木が門に倒れかかり、倒壊してしまった。

仁王門の斗栱

 大正14年ころから、仁王門再建の機運が高まり、どうせ再建するなら将来国宝になる価値ある門を再建することとなり、昭和4年に文部省技師阪谷良之進に設計が依頼された。

 寺院の最盛期であった鎌倉時代の様式で、用材は全て尾州檜を用いて、当時一級の建築物として、昭和6年12月に完成した。

 仁王門の左右には、鎌倉時代後期の作とされる、金剛力士像2体が安置されている。

阿形像

吽形像

 この金剛力士像は、院派仏師の院興の作であると言われている。

 吽形像などは、首のあたりに動脈が浮き出ている。雄渾な像である。京都府登録有形文化財となっている。

 仁王門を過ぎて、灯籠の並ぶ参道を歩く。

参道

 参道を行くと、突き当りの右手に山門があり、左手に石段がある。

 石段を登ると、寛政七年(1795年)に完成した本堂がある。

本堂への石段

本堂

 次回は、雄大な本堂を紹介する。