倭文(しとおり)八幡神社の北側に隣接して建つのが、真言宗の寺院、明慶山平等寺である。
平等寺は、長年倭文八幡神社の別当寺として同社を管理してきた。
江戸時代までは、八幡神の本地仏として、同社の薬師堂に薬師如来立像が祀られていたが、明治の神仏分離令により、八幡神社から薬師如来立像は撤去され、今は平等寺に祀られている。
平等寺の今の山門は、平成6年に再建されたものである。先代の山門は、嘉永七年(1854年)に倭文八幡神社の山門として建立されたものである。
山門に不動明王立像と毘沙門天立像が祀られていたが、明治の神仏分離により、仏像が祀られていた山門も平等寺に移築された。
門の向きをそのままに移築したので、山門の前側が境内を向いた状態で移築されてしまった。
門の前後が逆のままだったこともあるが、老朽化が進んだので、平成に入って山門は新築された。
門に祀られる不動明王立像と毘沙門天立像は、かつて倭文八幡神社に祀られていた仏像である。
八幡神は、日本の神々の中でも初期に神仏習合化された神様である。
八幡神は、誉田別命こと第15代応神天皇の神名だが、欽明天皇三十二年(571年)に豊後国宇佐の地に初めて示現したとされる。この八幡神を祀ったのが、今に伝わる宇佐八幡宮である。
東大寺の大仏を建立中の天平勝宝元年(749年)、宇佐八幡宮の禰宜が上京し、八幡神が大仏建立に協力すると託宣したことを朝廷に奏上した。
八幡神は、東大寺の鎮守として祀られた。奈良の手向山八幡宮である。
天応元年(781年)、朝廷は八幡神を鎮護国家、仏教守護の神とし、八幡大菩薩の神号(菩薩名)を贈った。これ以降、八幡大菩薩は仏教の守護神として、各地の寺院に勧請された。現在、日本で最も多く祀られている神様が、八幡神である。
今も隣り合う倭文八幡神社と明慶山平等寺の関係も、この神仏習合の歴史から解けるだろう。
元々倭文八幡神社の本地仏だった薬師如来立像が祀られる薬師堂は、昭和61年に再建されたものである。南あわじ市名産の鬼瓦の造形が見事だ。
元の薬師堂は、延宝六年(1678年)に建てられ、明治時代に八幡神社から平等寺に移築された。
約300年の風雪に耐えていたが、老朽化が進んだため、昭和になって建て替えられた。
薬師堂に祀られる薬師如来立像は、ヒノキの寄木造りで、像高1.58メートルである。丸くなだらかな肩の曲線や、流れるような衣文の線など、藤原時代の特徴をよく現わしているという。
また、平等寺には、康和六年(1104年)に書写された大般若波羅蜜多経362巻が保管されているという。奥書によると、元は河内国大県郡法禅寺二階御堂に奉納されていたものらしい。
日本では、永承七年(1052年)に末法に入ったと信じられてきた。この経典も、末法の世に救われることを求めて誰かが奉納したのだろう。
さて、平等寺から北に約200メートル進むと古びたお堂の地蔵尊がある。
この地蔵尊のある角を西に行くと、この近辺を中世に治めた土豪船越氏の館跡がある。船越館跡もしくは庄田城跡とされている。
今は庄田城蹟と刻まれた石碑があるだけで、城の遺構らしきものは何も残っていない。
石碑のある場所の東と南には倭文川が流れている。かつては川の他にも濠や土塁を巡らして守りを固めていたことだろう。
現代人は忘れてしまっているが、神仏習合の歴史を紐解いてみると、かつては皇室も仏教に帰依していたという認識を新たにする。
明治以降、日本の国体と言えば、記紀神話と神道に結びついた万世一系の天皇ということになっているが、神仏の結びつきは、江戸時代までは朝廷が公認していたことである。
私は最近、道端に佇むお地蔵様を見ても、登山道に並ぶ石仏を見ても、神社と寺院が隣り合わせになっているのを見ても、本来の日本はまだここに生きていると思うようになってきた。
昔からの日本は、日本の風土と共に、まだ断絶せずに続いているのである。