山崎の地は、江戸時代には山崎藩が支配していた。山崎藩主は、当初は徳川の血を引いた松平家や、池田家が務めていたが、いずれも転封となったり、お家が断絶したりして続かなかった。
最終的に延宝七年(1679年)に、本多忠英が入封し、以後9代にわたり、本多家が明治時代まで山崎藩主を務めた。
山崎藩は、1万石という小藩であった。城を持つことは出来ず、藩邸として陣屋を構えた。当時は宍澤陣屋と呼ばれていたようだが、地元では、陣屋跡を山崎城跡と呼んでいるので、ここでも山崎城跡と書く。
宍粟市山崎町鹿沢の本多公園に、山崎城跡はある。現存するのは当時の石垣と、紙屋門と呼ばれる門と、門の左右の土塀だけである。
紙屋門は、1850年代の建築だそうだ。左右の白壁の土塀は、本多氏が入封した延宝七年より前からあったらしい。
門を入ると、中には山崎町歴史民俗資料館が建っているが、今は公開されていない。
この建物、明治21年に警察署として建てられたもので、その後法務局庁舎として使われていたものらしい。
紙屋門の前に、享保十年(1725年)の山崎城の状況を描いた図が掲示されていた。真ん中の御殿が、現在山崎町歴史民俗資料館のある場所である。
図の上に桜の馬場とあるが、陣屋から桜の馬場に下りる当時の道が、今も残っている。
さて、今まで紹介したのは、江戸時代以降の平和な時代の宍粟市山崎町の遺構である。
今からは、戦国時代に宍粟郡を支配した宇野氏の凄惨な最期について書く。
山崎城跡から北に数キロ行くと、長水山という標高584メートルの山がある。その山上に長水(ちょうずい)城址がある。
宇野氏は、赤松氏の支族である。長水城は、赤松則祐が築城した。戦国時代には、宇野氏が守護代として長水城に拠り、宍粟郡を支配した。
戦国末期に、宇野氏は信長麾下で播磨平定を進める秀吉から降伏勧告を受けた。城内で議論した結果、秀吉に敵対しないこととし、宇野政頼が交渉のため秀吉のいる姫路城に赴いた。
しかし、秀吉は、宇野政頼に待ちぼうけを食らわせた。怒った政頼は、秀吉に会わずに長水城に帰ってしまう。交渉は成立しなかった。
天正八年(1580年)、羽柴秀吉軍の攻撃により、長水城は落城した。宇野政頼、祐清父子は、城を脱出するが、秀吉軍に追撃され、千種大森(現宍粟市千種町)で討ち死にしたとされる。
長水山の標高は高いが、途中まで車で行くことが出来る。登山口から頂上までは約40分である。
頂上に近づくと、石垣が見えてくる。山頂下に民家が1軒あった。
今、テレビ番組で、「ポツンと一軒家」というのがあるが、まさにそれである。
実は、登山前にネットで調べて、ここに一軒家があることは知っていた。
長水山の頂上には、信徳寺というお寺が建っている。ネット上の神戸新聞の記事によると、このお寺は、宇野氏の家臣の子孫が、長水城で滅んだ宇野氏や家臣達を供養するために、昭和9年に建てた寺らしい。
民家に住んでいるのは、今の信徳寺の住職一家である。先代の住職が、夢の中で、祖先から長水山上にお寺を建てて供養して欲しいという願いを聞いたことが始まりらしい。
山頂に行くと、不動明王像が祀られていた。
私が長水城址に登った日は、暑い日であった。山上でも焼けるように暑い。風は熱風のようである。
宇野氏を滅ぼした秀吉の天下は長く続かなかった。それでも、長水城で討ち死にした武士たちの気持ちは晴れないのだろうか。
江戸時代に入り、山崎城が築かれてから、長水城は廃城となった。
しかし、山上に立つと、未だにかつての長水城の主たちが、自分たちの存在を忘れないで欲しいと訴えているように感じた。