篠山城跡 その4

 大書院の南側には、かつて二の丸御殿があったが、明治になって篠山城が廃城となった際に取り壊された。

 二の丸御殿は、藩主やその奥方、家族が居住する建物だった。

 二の丸御殿を立体的に復元する資料がないため、当時の間取図を基に、御殿のあった場所に平面表示の工法で二の丸御殿が再現された。

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復元された二の丸御殿の間取

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 かつての部屋をブロックで囲んで表示し、部屋の名前を記したプレートをはめ込んでいる。

 また、二の丸には、池泉と築山が築かれた庭園があった。今は築山が再現されている。

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復元された庭園の築山

 かつて本丸があった場所は、二の丸より一段高くなっており、石垣で囲まれている。

 今は本丸跡には、青山藩の遠祖である青山忠俊と、藩主青山家12代目の青山忠裕(ただやす)を祀る青山神社が建っている。

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本丸跡

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青山神社

 青山忠俊は、三代将軍家光の幼少期(竹千代)の補導役(養育係)となった人物で、竹千代を厳しく諫めながら育てたという。

 家光が幕府の礎を盤石に出来たことに、忠俊の補導の影響もあったとされている。

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青山神社拝殿

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青山神社拝殿と本殿

 祭神のもう一柱、青山忠裕は、英明の藩主と仰がれ、藩士の教育に力を入れ、藩校振徳堂の学舎を拡大した。

 また幕府の要職である老中を32年間も務めた。

 明治15年、青山忠俊を祭神として青山神社は創建され、昭和5年に青山忠裕が合祀された。

 本丸跡の南東隅には、石垣が一段高く積み上げられた一角がある。天守台である。

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天守

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 慶長十四年(1609年)の築城の際は、城が堅固になり過ぎるとの理由で、幕府から天守閣の建設は止められた。

 その代わり、天守台の南東隅に隅櫓が建てられ、土塀が張り巡らされた。

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天守台の上面

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天守台から南側の三の丸跡を望む

 天守台から南側を見下ろすと、内堀の向こうに三の丸跡がある。東西に土塁が続いているが、形が整い過ぎているので、最近再現されたものだろう。

 二の丸の南側には、埋門がある。埋門は、普段は出入口として使用したが、非常時には埋め立てて通行を遮断した。

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埋門

 城の南側に回ると、石垣の間の埋門が見える。

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南側から見た埋門

 南側の三の丸跡から、本丸、二の丸の石垣を眺めると、なかなか重厚感がある。

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本丸、二の丸の石垣

 特に天守台の石垣は、高さが18メートルあり、ちょっとしたビルの高さだ。

 篠山城の石垣は、築城時に近江の穴太衆の指導の下に築かれた。

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天守

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 石垣の石材は、篠山各地から運ばれた野面石(自然石)と粗加工の割石が使われ、角部分には、長方形の石を交互に積む算木積という工法が用いられている。

 篠山城跡は、丹波国の城郭の中では、最大級の石垣を擁する城跡である。

 見れば見るほどなかなか堅固に積まれた石垣だ。

 日本の主要な城の石垣は、安土桃山時代から江戸時代初期の間という短期間に築かれた。

 これら城郭建築は、現代の日本の主要な観光資源となり、ある意味で日本の風景の象徴のような役割を担うようになった。

 家康も、豊臣家に備えるために築いた城が、後世庶民が観光のために闊歩する場所になるとは思いもしなかっただろう。

篠山城跡 その3

 大書院の西側には、篠山城の歴史についての資料やゆかりの品を展示した史料館が建っている。史料館は当時を彷彿とさせる木造瓦葺建築である。

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大書院と史料館の間取り

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史料館出入口

 篠山藩は、当初松平三家と呼ばれる三つの松平家が藩主を務め、その後譜代大名の青山家が藩主となって明治維新を迎えた。
 最初藩主の松平家は、松井という姓であったが、家康に戦功を認められ、松平姓を与えられた。

 松井松平家の次に藩主となった松平家(藤井)、松平家(形原)は、三河出身の松平家の庶流で、徳川家の出自である松平惣家の縁戚にあたる。

 出身地の地名から、藤井、形原を名乗った。

 青山家は、上野国青山郷の出身で、松平(徳川)家に仕えるために三河に遷った。

 寛延元年(1748年)から篠山藩主となった青山家は、学問を重んじ、藩士の教育に力を入れたが、国文学の物語、和歌、俳諧の文書や、漢籍、歴史、地誌に関する書物を収集した。

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青山家藩主の正室が嫁入りに持参した古今集かるた(18世紀)

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12代藩主青山忠裕が狩野派絵師に描かせた源氏物語絵巻「明石」の巻

 青山藩が収集した書籍は、現在は青山歴史村に移築された桂園舎に保管されている。
 篠山のどことなく気品のある街並みは、青山家の教養と青山家が力を入れた教育の影響を受けているのではないか。

 資料館から大書院に入る。大書院には九つの部屋があり、その周囲を広縁が巡っている。

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広縁

 大書院内で最も広い虎の間と手鞠の間には、地元の甲冑研究家が趣味で自作した戦国時代の著名大名の甲冑がずらりと並んでいる。 

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虎の間(手前)と手鞠の間(奥)に並ぶ甲冑

 最奥には、宿敵同士だった武田信玄織田信長の甲冑が並んでいる。

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武田信玄織田信長の甲冑

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真田幸村徳川家康の甲冑

 大坂夏の陣で生死をかけて相まみえた真田幸村徳川家康の甲冑もある。

 死んだ諸大名が生前の戦いを忘れて一堂に会したような奇観だ。

 その隣の源氏の間には、縮尺10分の1で再現された、大書院の全体の3分の1を制作した構造模型が展示してある。

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大書院構造模型

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 大書院再建工事に先立って、化粧材(見えている木材)と野物材(見えていない木材)がどのように組み合わされているのか、立体的、視覚的に把握出来るよう、熟練した宮大工2名が4か月かけて製作した模型らしい。

 この模型の前には、発掘された大書院の鬼瓦が展示してある。

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大書院の鬼瓦

 隣の葡萄の間には、江戸時代後期の狩野派の絵師・狩野養川が描いた草花小禽図屏風が展示されている。

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草花小禽図屏風

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 よく描かれた鳥や草花の絵を眺めて、いいなあと思えるようになってきたのは、年を取った証拠か。

 広縁には、かつて篠山城の道場に掛けられていた梵鐘が展示されている。

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篠山城の梵鐘

 この梵鐘は、四代藩主・松平(形原)康信が、二世安楽を願い、寛文十二年(1672年)に鋳造したものである。

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康信の名が刻まれた銘文

 その後、この梵鐘は、京都の新熊野権現社や蓮華寺に移されて大切に保管されていたが、昭和58年に多くの人々の尽力により、篠山城跡に戻って来た。

 本来あるべき場所に戻った梵鐘は、どこか満足気であった。

 虎の間東側の孔雀の間には、再現された篠山藩主青山家の甲冑と、孔雀の絵の掛け軸が飾られていた。

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孔雀の間

 大書院の奥にある上段の間と次の間は、藩主と家臣が臨場して藩の行事が行われた場所であろう。

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上段の間

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上段の間の格天井

 上段の間と次の間の障壁画は、当時の様子を再現するため、江戸時代初期の狩野派絵師が描いた屏風絵を転用して制作された。

 障壁画の保護のため、フラッシュを焚いての写真撮影が禁止されていたので、どうしても薄暗い写真になる。

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大床の老松図

 大床の老松図の前には、藩主が座った。長寿の象徴である老松は、藩の永遠を願って描かれたものだろう。

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天袋、違い棚、帳台構

 上段の間の天袋には花卉図が描かれ、違い棚の背景には松竹梅雉子図、帳台構には牡丹図が描かれている。

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帳台構の牡丹図

 上段の間から一段下がった次の間は、藩主に伺候する家臣が控えた間だろう。

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次の間

 次の間の奥にある板襖は、篠山城二の丸御殿で使われたものと伝えられている。表面に牡丹図、裏面に檜に鷹図が描かれていて、江戸時代後期狩野派絵師の手によるという。

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板襖表面の牡丹図

 次の間の四面の襖には、籬に菊図が描かれている。

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次の間の四面の襖の「籬に菊」図

 上段の間に座った藩主からは、家臣たちの背後にこの籬に菊図が見えたことだろう。

 お城の御殿建築の障壁画を見て、武装集団である武家の首脳部が集まるこうした部屋に、いかにも優し気な植物の絵が描かれているのは、不思議に思うが、植物や野鳥に安らぎを感じる日本人の心性を表わしているのではないかと思う。

 もし日本列島が乾燥した砂漠と山岳の島だったら、日本の文化は余程変わったものになっていただろう。

 季節に変化があり、植生が豊かな日本列島のありがたさが、こういうところにも現れている。

篠山城跡 その2

 慶長十四年(1609年)に篠山城が築城された時の篠山藩主は、松平康重である。

 康重の家は三河国幡豆郡に本拠を置き、代々松井氏を称していたが、康重の父・松井康親から家康に仕えるようになった。

 康重の代になって、家康から松平姓を与えられた。康重は慶長十三年(1608年)に篠山藩主となり、八上城に本拠を構えたが、篠山城築城後、篠山城に移った。

 篠山城初代城主の松平康重には、家康の落胤ではないかという説もあるが、真相は分からない。

 篠山城築城時、天守台が築かれたが、天守閣は建てられなかった。

 天守閣に代わって建てられたのが、書院建築としては日本有数の規模を誇る大書院である。

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復元された大書院

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 大書院は、慶長十四年(1609年)の築城と同時に建てられ、以後約260年間藩の公式行事などに使用された。

 明治維新に伴う廃城令後、篠山城の建物のほとんどは取り壊されたが、この大書院だけは地元の要望もあって残された。

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明治初期の大書院

 その後大書院は、篠山尋常小学校多紀郡高等女学校の校舎や、公会堂として利用されたが、昭和19年1月6日の夜、失火により焼失した。建築されてから335年後のことである。

 地元の人々は、戦後の間、篠山の長年のシンボルだった大書院の復興を願い続けた。

 古絵図、古写真の研究や、発掘調査などの学術調査により、大書院の再建が可能であることが分り、平成8年に大書院の再建工事が始まった。

 そして平成12年3月、大書院は再建された。

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大書院跡の発掘調査

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大書院の上棟式(平成10年)

 再建された大書院は、平屋建てで床面積は739.33平方メートル、棟高は12.88メートルある。

 内部に8つの部屋があり、その周囲を広縁が巡り、更にその周りを一段低い落縁が巡っている。

 屋根は入母屋造・杮(こけら)葺き(サワラ材)である。

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杮葺きの屋根

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 大書院の正面は北側で、車寄と呼ばれる正面玄関がある。車寄には、軒唐破風の屋根がついている。

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大書院北側と車寄の軒唐破風屋根

 大書院の北側は立入が制限されているので、塀の間から窺うしかない。

 板戸で閉じられているが、軒唐破風の屋根の下が、車寄である。

 また、大書院の北東隅には中門がある。

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大書院東側。右側が中門

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大書院中門

 大書院は、同様の建物である京都・二条城の二の丸御殿遠侍に匹敵する規模を有する。

 二条城は幕府直轄の城であった。篠山城が一譜代大名の城であることを思えば、大書院の規模は破格のものである。

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大書院(南東側)

 大書院の再建から21年が経過したが、これからも丹波篠山の象徴として末永く残ってもらいたい建物だ。

篠山城跡 その1

 9月30日に、私の住む兵庫県にも出ていた新型コロナウイルス感染拡大防止のための緊急事態宣言が終了した。

 ようやく史跡巡りが再開できるようになった。

 今日訪れたのは、兵庫県丹波篠山市である。

 最初に丹波篠山市の象徴とも言うべき、篠山城跡を訪れた。

 赤穂城、姫路城、明石城津山城岡山城竹田城に続いて、私が訪れた7番目の日本百名城である。

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篠山城

 篠山城は、慶長十四年(1609年)に、徳川家康山陰道の要衝である篠山に築いた平山城である。

 慶長十四年と言えば、まだ大坂城の豊臣家は健在で、西日本各地に豊臣家から恩顧を被った大名が存在していた。

 家康は、大坂城を包囲する拠点とし、なおかつ豊臣家恩顧の大名に睨みを効かせるために、この城を築いた。

 豊臣側と戦争になった場合、山陰から大坂に援軍に来た豊臣側の大名の軍勢を、ここで食い止めようとしたのだろう。

 山陽道で同じ役割のために造られた城が姫路城である。

 篠山城築城は、天下普請とされ、山陽道山陰道南海道の15ヶ国20大名が建設に携わった。豊臣家恩顧の大名の経済力を削ぐことが目的だった。

 篠山城の縄張りは、築城の名手と呼ばれた藤堂高虎が設計した。

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篠山城鳥瞰図

 篠山城は、当時笹山と呼ばれた独立丘陵を利用して築城された。

 外堀と内堀の二重の濠を備え、外堀の北、南、東側に、濠と土塁で囲まれた馬出(うまだし)という曲輪が備え付けられた。

 馬出は、城の3つの出入口の防備を固めるために築かれたが、攻めに転じる時は、馬出に兵馬を集結させて、一挙に外側に打って出ることも出来る。

 現在は東と南の馬出が残っている。馬出が現存するのは、全国の城で篠山城が唯一であるらしい。

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南馬出跡の石碑、説明板

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南馬出跡の土塁

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南馬出跡の濠

 東馬出跡地は、内部は公園になっているが、外側には石垣が残っていて、当時の雰囲気を偲ぶことが出来る。

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東馬出跡地内の公園

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東馬出跡の濠と石垣

 篠山城の外側を囲むように水を湛えているのが外堀である。

 外堀に面した城側には石垣がなく、樹木が生い茂った土塁となっているため、外堀は大きな池のような風情である。

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南西側の外堀

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北側の外堀

 篠山城の内堀の内部には、本丸、二の丸があった。外堀と内堀の間の空間は三の丸である。

 現在は、二の丸跡に平成12年に再建された大書院が建っており、本丸跡に最後の篠山藩主だった青山氏を祀った青山神社がある。

 本丸、二の丸の石垣は、今も綺麗に残っている。

 大書院に展示されていた篠山城の模型と実物の写真を見比べた方が分り易いだろう。

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篠山城の模型(手前が北側)

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本丸、二の丸(手前が北側)

 模型中央の白い屋根の大きな建物が大書院だが、その北側に、内堀を跨いで三の丸まで伸びる細長い建物がある。

 これが、二の丸への出入口となる北廊下門である。

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北廊下門跡

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 今は北廊下門の建物は残っていないが、北廊下門があった場所に、内堀にかかる土橋が残っている。

 北廊下門跡の上に立って東側を見ると、鍵型になった内堀がよく見える。

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内堀

 また、北廊下門跡の東側には、櫓跡が台形の土塁状の姿で再現されている。

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櫓跡

 本丸、二の丸の北側の石垣群は、なかなか見事である。

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二の丸北側の石垣

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二の丸北西側の石垣

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本丸北側の石垣

 さて、北廊下門跡を渡って二の丸に向かうと、じぐざぐに曲がった石垣で囲まれた通路に出る。枡形と呼ばれている。

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枡形

 侵入してきた敵軍の動きを妨げるための仕掛けである。

 ここを通過すると、二の丸の入口が見えてくる。

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二の丸入口

 二の丸の入口は、現在は冠木門になっているが、当時は鉄(くろがね)門という鉄製の門であった。

 この内部は、木造の建物が建ち並んでいるだけなので、ここを突破されたら実質的に城は終わりだろう。

 関ケ原戦後から大坂の陣までの間に建築(もしくは再建)された、篠山城、姫路城、伏見城和歌山城は、おそらくどれも大坂城に睨みを効かせるために家康が築かせたものだろう。

 そのため、どの城も大規模に築くことが許されたのだと思われる。

 そして各城に信頼できる譜代大名を配置した。

 家康による豊臣家滅亡計画の用意周到さは、今も日本地図の上に残っているわけだ。

用瀬宿

 鳥取市用瀬(もちがせ)町用瀬は、江戸時代には宿場町であった。

 用瀬宿は、智頭宿から鳥取城に向かった場合の次の宿場町である。当時の戸数は約280戸、人口は約1000人を数えたという。

 本陣、牢屋、制札場が設けられ、十数匹の駅馬も用意されていた。

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用瀬宿

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 用瀬の町の中央を通るのは、旧智頭街道であるが、町の北のはずれに鳥取藩が設置した番所跡がある。

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番所跡と芭蕉の句碑

 用瀬の番所が設置されたのは、割合に新しく、慶応元年(1865年)である。藩士6人、下番4人が配置され、通行人やその荷物の検査を行っていた。番所は明治4年11月まで置かれていたそうだ。

 番所跡には、松尾芭蕉の句碑が建っている。

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芭蕉句碑

 句碑には、「夏来ても ただ一つ葉の 一つかな」という句が刻まれている。

 一つ葉は、多年生常緑草でシダ類の一種である。地面から葉が一枚だけ生えるので、この名がある。

 夏が来て草木が密生しているのに、一つ葉だけは一つのままであることに、もののあわれを感じた芭蕉の感懐が表れている。

 この句碑は寛政九年(1797年)に建てられたものである。

 用瀬は、茶所としても有名だったそうだ。茶を扱う商人の中で、蕉風の俳諧を嗜む有志が建てたものだろう。

 中町には、参勤交代の時に藩主が下馬して通過したと伝えられる浄土宗の寺院、法雲山大善寺がある。

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大善寺

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お地蔵様と百合の花

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お堂の一つ

 この寺は、豊臣政権の時代に、西日本に浄土宗を広めた武蔵国川越の蓮馨寺の住職・二世文應が開基したという。

 一の谷には、素戔嗚尊を祀る東井(とうい)神社がある。

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東井神社の石段

 東井神社は、天暦年中(947~957年)に京の八坂神社(当時の祇園社)から素戔嗚尊をこの地に勧請し、妙見大明神と称したことに始まる。

 天正年間(1573~1593年)に社殿が焼失したが、その後再建され、江戸時代には智頭郡における大社で、藩の祈願所であった。

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境内の御神木

 明治元年、近くの六社を合祀し、東井神社と改称した。

 明治5年、藩校尚徳館に祀られていた神社の社殿が東井神社に移築された。

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東井神社拝殿

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本殿

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龍の彫刻

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藩主池田家の家紋「揚羽蝶

 本殿の扉には、鳥取藩主池田家の揚羽蝶の家紋が彫られている。

 凛とした立派な本殿だ。東井神社本殿は用瀬町指定文化財である。

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鬱蒼とした境内

 いい神社に参拝すると、気持ちが引き締まる思いがする。

 新用瀬橋東詰から南下すると変電所があるが、その側に二基の石碑がある。

 かつての一里塚の跡であるという。

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一里塚の跡に建つ石碑

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 一里塚とは、江戸時代に街道沿いに一里毎に築かれた塚のことで、旅人が旅路の目安にしたものである。

 二基の石碑のうち、向かって右側は「南無妙法蓮華経」と刻まれた石碑である。

 左側の石碑には、役行者の像と「大峯三十三度供養」という文字が刻まれている。

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「大峯三十三度供養」と刻まれた石碑

 大峯山で修験行者を先導する資格を持つ行者を大先達と言うが、その大先達の資格を得た記念に建てられた石碑であるらしい。

 文化文政年間(1804~1830年)には、この地方では大峯信仰が盛んだった。

 江戸時代には、各地に関所や番所が設けられ、人々の移動は厳しく制限されていたが、山伏は自由に国内を移動出来たそうだ。

 因幡伯耆修験道が盛んな地域だが、この地からも多くの行者が聖地大峯山を目指したことだろう。

 一里塚の跡の前には、江戸時代に千代川の渡し場だった、古用瀬の渡しの跡がある。

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古用瀬の渡し

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 旅人や参勤交代の行列も、ここで川を渡ったのだろうか。

 旧宿場町は、狭い区域に多くの史跡があって、町の歴史を追いやすい。時間が圧搾されている感じがする。

 他に用瀬の史跡として著名なものに、修験道の山、三角山と用瀬城跡があるが、この二つは次回の因幡の旅で訪れようと思う。

熊野神社遺跡 後編

 小さな鳥居を過ぎて参道を行くと、道が二手に別れている。

 左に行くと、燈明の塔と呼ばれる巨石の上に載った石塔がある。

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燈明の塔への道

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燈明の塔と巨石

 燈明の塔は、二つに割れた巨石の上に載っている。

 ここではこの岩の間を通ることで、今までの人生で積み重ねた悪を払い落とし、新たに生まれ変わるという意味を持つ、胎内くぐりの儀式が行われていたという。

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割れた岩

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燈明の塔

 古代から日本人は、巨石自体を聖地として信仰してきたが、巨石に触れたり、近づくことで身も心も浄められるという思いがあったのだろう。

 燈明は、浄められた心が輝きを放っていることを象徴しているのではないか。

 分岐点まで戻って、奥の院を目指して歩き始めた。

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奥の院への道

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 奥の院の手前には、三途の川と呼ばれる小川が流れ、鉄板の橋が架けられている。ここから先は浄土だ。

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三途の川

 川を越えて進むと、山肌に複数の石室が設置されているのが目に入った。中には石仏が安置されている。

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石室群

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石室内の石仏

 本家の熊野古道にも、道沿いに多くの石仏が置かれている。

 石仏の古拙な表情は、その前を通る人をほっとさせる。

 人生を一つの道だと思えば、人生の途上で、古道の脇の石仏のような存在に知らず知らず出会っているかも知れない。

 さて、ここから奥に行くと、岩場の上に四人仏と呼ばれる四体の石仏がある。これが奥の院である。

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奥の院の石仏

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 恐らく熊野神社遺跡は、修験行者が修行する場所でもあったことだろう。

 鳥取県には、名峰大山を始め、修験道の修行の山が多数ある。

 この奥の院の先には、更に深山の羅漢、流れ滝、那智の滝があるようだが、道が整備されておらず、危険であることから立入が制限されていた。

 これ以上先に進むのはやめた。

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奥の院の先の案内

 熊野神社遺跡は、全国的には全く有名ではないが、こういった熊野参拝を身近に行うことができるミニ熊野は、全国にあるような気がする。

 さて、佐治谷を更に西に行った鳥取市佐治町尾際(おわい)には、昭和47年に完成した佐治川ダムがある。

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佐治川ダム

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 20世紀に築かれた、巨大なコンクリートの塊であるダムは、産業遺産として後世に伝えられることだろう。

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佐治川ダム案内板

 このダムの更に西には、美作との境の辰巳峠がある。

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辰巳峠方面

 美作の史跡巡りも並行して進めているので、この先に美作があると知ると感慨深い。この先にあるのは恩原である。

 熊野神社遺跡は、不思議な場所であったが、ここを歩いた前と後では、日本文化に対する考え方が変わったような気がする。

 仏教の教義や神話体系といった理屈以前の、自然を畏れ敬う気持ちが、日本の根源にあるように思った。

熊野神社遺跡 前編

 「鳥取県の歴史散歩」によれば、佐治四郎重貞が根拠地とした場所の一つが、鳥取市佐治町大井にある熊野神社遺跡であるという。

 どんな場所か分らぬが、取り敢えず行ってみることにした。

 訪れてみると、今まで見たこともないような不思議な史跡であった。

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熊野神社遺跡登り口付近

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 神社の遺跡とは一体何なのだろう。そんな疑問を持って訪れた。

 熊野神社遺跡には、古墳時代に集石塚という形式の古墳が築かれた。その後、紀伊熊野三山から熊野大神が勧請され、熊野神社が建てられた。

 江戸時代前期には、神仏習合の霊地として、数々の石仏が祀られ、多くの参拝者が訪れたという。

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熊野神社遺跡案内図

 登り口付近に立てられた案内図を見ると、奥の院まで約400メートル、その奥にあるという那智の滝まで約800メートルあるようだ。

 明治時代まで熊野神社は存続していたが、大正5年(1916年)に口佐治神社に合祀され、熊野神社は廃絶となった。

 神社の遺跡ながら、神仏習合の名残として、参道に多くの石仏が残された。

 現在の熊野神社遺跡は、鳥取市指定文化財、史跡となっている。

 登り口にはかつて鳥居があったのだろうが、今はそれもない。出迎えてくれるのは石造五輪塔と石仏である。

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石造五輪塔と石仏

 石仏はユーモラスな表情をした羅漢仏である。

 何も知らない人がここに来たら、神社の跡ではなく寺院の跡だと思う事だろう。

 参道をしばらく登って行くと、積石塚が二基ある。

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参道

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積石塚

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積石塚の石室

 積石塚には、小さな石室のようなものがある。全国的に見ると、香川県徳島県、長野県、山梨県などに積石塚式の古墳が散在するという。

 こういう石が乱雑に積まれた古墳があることを初めて知った。

 塚の中に石に囲まれた石室があり、その中に羅漢仏が置いてあった。

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石室の中の羅漢仏

 天井石の隙間から漏れた光が丁度顔を照らしている。何とも素朴な表情をした石仏だ。

 参道を登って行くと、所々に磐座があったり、積石塚があったりする。

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磐座

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積石塚と磐座

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磐座

 各地の史跡を歩くうちに、日本の宗教の根源には、巨石や巨木や山や森や滝といった自然物そのものを信仰する自然崇拝が横たわっていることを実感するようになってきた。

 神社とその祭神や、寺院とその本尊は、そこを訪れて見事な自然物に感嘆した人が、神や仏に感応したと思い、後付けで設置したものだと思うようになってきた。

 熊野古道などは、まさに日本の根源的な信仰の姿を残している。熊野三山の社殿は後付けのもので、熊野古道の周囲の鬱蒼とした森や山々、巨大な岩、滝、川そのものが、崇拝すべき本来の対象なのである。

 神社が廃絶された熊野神社遺跡を訪れてみると、むしろ神社の根源的な姿が見えたような気がする。

 道中あちこちに、石室に設置された羅漢仏がある。熊野神社遺跡には、全部で17体の羅漢仏があるという。

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羅漢仏

 奥の院までの参道の丁度中間地点に、熊野神社の本殿跡がある。

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本殿跡

 本殿跡には、三基の石塔や、板碑、本殿、三重塔の跡などがある。

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石塔

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板碑と本殿、三重塔跡

 しかし本殿跡で最も目を惹くのは、地中に半ば埋まったように見える小さな石造の鳥居である。

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小さな鳥居

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 私が今まで目にしたことのある石造の鳥居の中では、文句なく最小である。

 一体この小さな鳥居にどんな意味があるのだろう。まさか小人が潜るわけでもあるまい。

 苔むした石と鬱蒼とした森と清冽な滝。それが本来の信仰の対象だとしたら、それらの自然物が存在する限り、人間が後で建てた神社が廃絶されたことぐらい何ほどのことがあろう。

 神々は今でも太古から変わらずにそこにいらっしゃることだろう。