9月30日に、私の住む兵庫県にも出ていた新型コロナウイルス感染拡大防止のための緊急事態宣言が終了した。
ようやく史跡巡りが再開できるようになった。
赤穂城、姫路城、明石城、津山城、岡山城、竹田城に続いて、私が訪れた7番目の日本百名城である。
篠山城は、慶長十四年(1609年)に、徳川家康が山陰道の要衝である篠山に築いた平山城である。
慶長十四年と言えば、まだ大坂城の豊臣家は健在で、西日本各地に豊臣家から恩顧を被った大名が存在していた。
家康は、大坂城を包囲する拠点とし、なおかつ豊臣家恩顧の大名に睨みを効かせるために、この城を築いた。
豊臣側と戦争になった場合、山陰から大坂に援軍に来た豊臣側の大名の軍勢を、ここで食い止めようとしたのだろう。
山陽道で同じ役割のために造られた城が姫路城である。
篠山城築城は、天下普請とされ、山陽道、山陰道、南海道の15ヶ国20大名が建設に携わった。豊臣家恩顧の大名の経済力を削ぐことが目的だった。
篠山城は、当時笹山と呼ばれた独立丘陵を利用して築城された。
外堀と内堀の二重の濠を備え、外堀の北、南、東側に、濠と土塁で囲まれた馬出(うまだし)という曲輪が備え付けられた。
馬出は、城の3つの出入口の防備を固めるために築かれたが、攻めに転じる時は、馬出に兵馬を集結させて、一挙に外側に打って出ることも出来る。
現在は東と南の馬出が残っている。馬出が現存するのは、全国の城で篠山城が唯一であるらしい。
東馬出跡地は、内部は公園になっているが、外側には石垣が残っていて、当時の雰囲気を偲ぶことが出来る。
篠山城の外側を囲むように水を湛えているのが外堀である。
外堀に面した城側には石垣がなく、樹木が生い茂った土塁となっているため、外堀は大きな池のような風情である。
篠山城の内堀の内部には、本丸、二の丸があった。外堀と内堀の間の空間は三の丸である。
現在は、二の丸跡に平成12年に再建された大書院が建っており、本丸跡に最後の篠山藩主だった青山氏を祀った青山神社がある。
本丸、二の丸の石垣は、今も綺麗に残っている。
大書院に展示されていた篠山城の模型と実物の写真を見比べた方が分り易いだろう。
模型中央の白い屋根の大きな建物が大書院だが、その北側に、内堀を跨いで三の丸まで伸びる細長い建物がある。
これが、二の丸への出入口となる北廊下門である。
今は北廊下門の建物は残っていないが、北廊下門があった場所に、内堀にかかる土橋が残っている。
北廊下門跡の上に立って東側を見ると、鍵型になった内堀がよく見える。
また、北廊下門跡の東側には、櫓跡が台形の土塁状の姿で再現されている。
本丸、二の丸の北側の石垣群は、なかなか見事である。
さて、北廊下門跡を渡って二の丸に向かうと、じぐざぐに曲がった石垣で囲まれた通路に出る。枡形と呼ばれている。
侵入してきた敵軍の動きを妨げるための仕掛けである。
ここを通過すると、二の丸の入口が見えてくる。
二の丸の入口は、現在は冠木門になっているが、当時は鉄(くろがね)門という鉄製の門であった。
この内部は、木造の建物が建ち並んでいるだけなので、ここを突破されたら実質的に城は終わりだろう。
関ケ原戦後から大坂の陣までの間に建築(もしくは再建)された、篠山城、姫路城、伏見城、和歌山城は、おそらくどれも大坂城に睨みを効かせるために家康が築かせたものだろう。
そのため、どの城も大規模に築くことが許されたのだと思われる。
そして各城に信頼できる譜代大名を配置した。
家康による豊臣家滅亡計画の用意周到さは、今も日本地図の上に残っているわけだ。