大書院の南側には、かつて二の丸御殿があったが、明治になって篠山城が廃城となった際に取り壊された。
二の丸御殿は、藩主やその奥方、家族が居住する建物だった。
二の丸御殿を立体的に復元する資料がないため、当時の間取図を基に、御殿のあった場所に平面表示の工法で二の丸御殿が再現された。
かつての部屋をブロックで囲んで表示し、部屋の名前を記したプレートをはめ込んでいる。
また、二の丸には、池泉と築山が築かれた庭園があった。今は築山が再現されている。
かつて本丸があった場所は、二の丸より一段高くなっており、石垣で囲まれている。
今は本丸跡には、青山藩の遠祖である青山忠俊と、藩主青山家12代目の青山忠裕(ただやす)を祀る青山神社が建っている。
青山忠俊は、三代将軍家光の幼少期(竹千代)の補導役(養育係)となった人物で、竹千代を厳しく諫めながら育てたという。
家光が幕府の礎を盤石に出来たことに、忠俊の補導の影響もあったとされている。
祭神のもう一柱、青山忠裕は、英明の藩主と仰がれ、藩士の教育に力を入れ、藩校振徳堂の学舎を拡大した。
また幕府の要職である老中を32年間も務めた。
明治15年、青山忠俊を祭神として青山神社は創建され、昭和5年に青山忠裕が合祀された。
本丸跡の南東隅には、石垣が一段高く積み上げられた一角がある。天守台である。
慶長十四年(1609年)の築城の際は、城が堅固になり過ぎるとの理由で、幕府から天守閣の建設は止められた。
その代わり、天守台の南東隅に隅櫓が建てられ、土塀が張り巡らされた。
天守台から南側を見下ろすと、内堀の向こうに三の丸跡がある。東西に土塁が続いているが、形が整い過ぎているので、最近再現されたものだろう。
二の丸の南側には、埋門がある。埋門は、普段は出入口として使用したが、非常時には埋め立てて通行を遮断した。
城の南側に回ると、石垣の間の埋門が見える。
南側の三の丸跡から、本丸、二の丸の石垣を眺めると、なかなか重厚感がある。
特に天守台の石垣は、高さが18メートルあり、ちょっとしたビルの高さだ。
篠山城の石垣は、築城時に近江の穴太衆の指導の下に築かれた。
石垣の石材は、篠山各地から運ばれた野面石(自然石)と粗加工の割石が使われ、角部分には、長方形の石を交互に積む算木積という工法が用いられている。
篠山城跡は、丹波国の城郭の中では、最大級の石垣を擁する城跡である。
見れば見るほどなかなか堅固に積まれた石垣だ。
日本の主要な城の石垣は、安土桃山時代から江戸時代初期の間という短期間に築かれた。
これら城郭建築は、現代の日本の主要な観光資源となり、ある意味で日本の風景の象徴のような役割を担うようになった。
家康も、豊臣家に備えるために築いた城が、後世庶民が観光のために闊歩する場所になるとは思いもしなかっただろう。