慶長十四年(1609年)に篠山城が築城された時の篠山藩主は、松平康重である。
康重の家は三河国幡豆郡に本拠を置き、代々松井氏を称していたが、康重の父・松井康親から家康に仕えるようになった。
康重の代になって、家康から松平姓を与えられた。康重は慶長十三年(1608年)に篠山藩主となり、八上城に本拠を構えたが、篠山城築城後、篠山城に移った。
篠山城初代城主の松平康重には、家康の落胤ではないかという説もあるが、真相は分からない。
篠山城築城時、天守台が築かれたが、天守閣は建てられなかった。
天守閣に代わって建てられたのが、書院建築としては日本有数の規模を誇る大書院である。
大書院は、慶長十四年(1609年)の築城と同時に建てられ、以後約260年間藩の公式行事などに使用された。
明治維新に伴う廃城令後、篠山城の建物のほとんどは取り壊されたが、この大書院だけは地元の要望もあって残された。
その後大書院は、篠山尋常小学校、多紀郡高等女学校の校舎や、公会堂として利用されたが、昭和19年1月6日の夜、失火により焼失した。建築されてから335年後のことである。
地元の人々は、戦後の間、篠山の長年のシンボルだった大書院の復興を願い続けた。
古絵図、古写真の研究や、発掘調査などの学術調査により、大書院の再建が可能であることが分り、平成8年に大書院の再建工事が始まった。
そして平成12年3月、大書院は再建された。
再建された大書院は、平屋建てで床面積は739.33平方メートル、棟高は12.88メートルある。
内部に8つの部屋があり、その周囲を広縁が巡り、更にその周りを一段低い落縁が巡っている。
屋根は入母屋造・杮(こけら)葺き(サワラ材)である。
大書院の正面は北側で、車寄と呼ばれる正面玄関がある。車寄には、軒唐破風の屋根がついている。
大書院の北側は立入が制限されているので、塀の間から窺うしかない。
板戸で閉じられているが、軒唐破風の屋根の下が、車寄である。
また、大書院の北東隅には中門がある。
大書院は、同様の建物である京都・二条城の二の丸御殿遠侍に匹敵する規模を有する。
二条城は幕府直轄の城であった。篠山城が一譜代大名の城であることを思えば、大書院の規模は破格のものである。
大書院の再建から21年が経過したが、これからも丹波篠山の象徴として末永く残ってもらいたい建物だ。