生野銀山 その5

 金香瀬坑道から出て、坑道の裏山に点在する露頭群を巡り歩くことにする。

 露頭とは、地表に露出した鉱脈のことで、江戸時代までは、こうした露頭を掘り進んで鉱石を掘り出した。

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金香瀬旧坑露頭群案内図

 金香瀬坑口のすぐ側に不動の滝と呼ばれる滝が滾り落ちている。中々の落差のある滝だ。不動の滝と言うくらいだから、昔行者が修行していた滝かも知れない。

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不動の滝

 この不動の滝を見下ろす場所に、滝不動と呼ばれる不動明王を祀るお堂がある。

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滝不動

 このお不動さんは、織豊時代から坑内安全と鉱山繁栄を祈念するため、信仰されていたものらしい。

 滝不動を過ぎると、生野代官所の金香瀬番所の門を復元したものが建っている。昔この辺りに番所が建っていたものだろうか。

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生野代官所番所

 門を潜って歩いて行くと、あちこちに巨岩が露出した独特な景観が見えてくる。私が訪れた日は、雨が降り始め、靄がかかって、余計幻想的に見えた。

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道端の巨岩

 しばらく行くと、「慶寿ひ」と呼ばれる、発見された永禄十年(1567年)ころから幕末まで、約300年間採掘され続け、純度の高い銀を生み出した鉱脈の跡が見えてきた。

 鉱脈を露天掘りした跡は、慶寿の堀切と呼ばれ、朝来市指定文化財となっている。

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慶寿の堀切

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 ここからは、一時は「土砂の如く」銀が産出されたらしい。最も深い所で、200メートルは掘られているそうだ。

 また、周辺の岩壁のところどころに、徳川時代に手掘りで掘られた坑道が口を開けている。

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出賀坑

 また、金香瀬鉱山一帯は、鉱脈が出来た後に断層が発生し、元々の鉱脈が分断されてずれてしまったらしい。

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鉱脈と断層の説明板

 大丸坑口の傍には、日本最大規模の粘土断層が顔を覗かせている。

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大丸坑口跡と粘土断層

 大丸坑口は、金香瀬坑道とつながっているそうだ。

 大丸坑口の道を挟んで反対側には、金盛坑口が口を開けている。

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金盛坑口

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 金盛坑口という名前から察するに、ここからは金が大量に産出されたのではないか。

 岩盤を手で掘った痕というものは、不規則にぎざぎざしていて、どことなく温かみがあり、見ていて心が落ち着く。

 今回でようやく生野銀山のシリーズは終結する。この鉱山から生み出された富は、安土桃山時代から江戸時代にかけて、日本の商品経済の発展に大きく寄与したことだろう。

 江戸時代の商品経済の基盤の上に、明治以降の日本経済が乗っかっていることを思えば、今の日本人は、この鉱山とそこで働いた人々に大きな恩を蒙っていると言える。

 先人の労働の上に、現代人の生活が成り立っていると思えば、我々も人生を無駄に出来ないという気持ちになる。

生野銀山 その4

 昭和の鉱山の作業の様子を引き続き見学する。

 江戸時代には鑿で手掘りしていた鉱山も、昭和の時代には削岩機、削孔機で掘り進めるようになった。

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上向き削孔機を使用する作業員

 坑道の岩盤が軟弱な箇所は、人為的に補強したが、その工法の一つである五枚合掌支柱組が印象的だった。檜の丸太を組み合わせた支柱組は、安心感を与える。

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五枚合掌支柱組

 坑道の途中、白い石英の中に金が浮き出ている場所があった。

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石英の中の金

 写真の白くなっている個所が石英だが、その表面の黄色くなっている部分が金であるらしい。人間が価値を置く金も、元の姿はこのようなものだ。

 鉱山の中には、鉱脈が至る所にあるが、鉱脈は丁度1枚の板のように地底の奥から噴出しているものらしい。

 その鉱脈を、ダイナマイトや削岩機で破砕して採掘すると、鉱脈を掘ったところが板状の幅広い穴になる。このような採掘方法をシュリンゲージというらしい。

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シュリンゲージで開いた穴

 まるで地獄に通じる穴の様だ。このような巨大な鉱脈も、削孔機で開けた孔にダイナマイト入れて爆破する発破作業で掘って行った。

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発破作業の復元

 発破作業で破砕した鉱石は、ローダーという圧縮空気で動く機械で掬って、後につながれた鉱車に積み込んだ。

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ローダー作業

 さて、鉱山の採掘は、鉱脈を探し当てることから始まるが、明治以前の探鉱は、山師が地表に顔を出している鉱石(露頭)を見つけ出し、そこから下へ下へ掘っていく採掘方法だった。

 しかし、明治以降は、まず垂直に竪坑を掘り、そこから横に坑道を掘って行って、ボーリングという機械でコアと呼ばれる鉱石を採取し、鉱脈を探り当てる方法が採られた。

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ボーリング作業の様子

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採掘されたコアの見本

 このボーリング作業によって、より効率的に鉱脈を探り当てられるようになった。

 更に進むと、天正五年(1577年)にここを訪れた秀吉が、飲んで美味を褒め称えた太閤水が湧き出ていた。

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太閤水

 秀吉はこの水で茶をたてたそうだ。となると、この坑道は天正五年には既にここまで掘られていたことになる。

 昭和時代には、作業員は竪坑を上下するエレベーターを使って鉱山に出入りした。

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エレベーター

 このエレベーターは、作業員や資機材だけでなく、2トンまでの鉱石を載せることが出来た。

 エレベーターは、太いワイヤーを使って動かしていたが、そのワイヤーの巻き揚げ機がそのまま残されている。

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巻き揚げ機

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ワイヤーの滑車のある坑

 この巻き揚げ機は、昭和4年に東京石川島造船所によって製作されたものだ。昭和の機械は魅力的だ。

 鉱山は男の職場のように思われがちだが、どうやら女性も労働力として活躍していたようだ。

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女性作業員

 砕女(かなめ)という、鉱石を金槌で砕いて、銀鉛を含む鉱石を選り分ける作業員などがいたようだ。

 また、江戸時代には、振矩師(ふりがねし)という、長年の経験で坑内を測量し、坑道を設計する測量士がいた。

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振矩師

 さて、暗い坑道の見学もようやく終点に近づいた。

 坑道の出口手前には、その日採掘された鉱石の出来を点検し、記録する代官所の役人の詰所がある。

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代官所役人の詰所

 徳川幕府の財政を支えた鉱山の実態が実感できる。

 ここから進むと、トロッコ列車のレールの跡が坑道出口まで続いている。地上の光が見えてきた。光を見ると、やはりほっとする。

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トロッコ列車のレール

 さて、地上に出て振り返ると、三ツ留という檜柱で造られた江戸時代の坑口が再現されていた。

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三ツ留

 坑口の上の2本の化粧木は、鳥居を表したものであるらしい。

 坑道出口の上には、生野銀山初期に、地表に露出した鉱脈を手掘りして出来た、滝間歩旧坑の作業をマネキンが再現していた。

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滝間歩旧坑の作業

 400年以上に渡って、生野銀山は採掘されてきた。 

 鉛や錫は、資材として道具の原料に利用された。金銀は、それ自体が価値あるものとして、物を交換する尺度である貨幣として利用された。

 一塊の鉱石に含まれる鉱物資源は微量である。鉱物資源を得るために、人々は時間をかけて、膨大な手間のかかる作業を行った。そして鉱山は掘り尽くされた。

 長年月これだけの坑道を掘り進めさせた原動力は、生活を良くしたいという人間の欲である。人間の欲が生み出すエネルギーの膨大さを思い知った。

生野銀山 その3

 生野銀山の坑道で現在公開されているのは、金香瀬坑道である。

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金香瀬坑道入口と出口

 写真左のトンネルの入口のようなものが金香瀬坑道の入口で、右側の橋の奥が坑道の出口である。

 坑道出入り口の周囲は、岩壁を清冽な滝が流れ落ちており、心地好い空間である。

 坑道入口の手前には、明治初頭に日本に招かれ、生野銀山の近代化に努めたフランスの鉱山師ジャン=フランソワ・コワニエの胸像が建っている。

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ジャン=フランソワ・コワニエの胸像

 コワニエは、五代友厚の紹介により、明治元年に明治政府の御雇鉱山師として来日し、生野に着任した。

 彼は、生野銀山の開発計画を策定し、採鉱、選鉱、精錬といった作業の機械化を進めた。

 火薬による坑道の爆破、坑道内の鉄道の軌道敷設、巻揚げ機の設置もコワニエの功績である。明治10年に任期満了に伴い、コワニエは日本を去った。

 明治初頭は、多くの外国人技師が日本政府に雇われ、日本の近代化に貢献した。コワニエもその一人だ。

 金香瀬坑道の坑口も、コワニエが導入したフランス式の坑口である。

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金香瀬坑道坑口

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 この坑口も、明治の産業遺産の一つだろう。

 実は私が生野銀山を訪れたのはこれで2度目で、前回は真夏の猛暑の日だった。

 坑道内は、年間を通して気温が約13℃で一定しており、前回訪れた時は、この坑口から冷風がどんどん外に向かって吹き出ていた。まるで天然のクーラーのようだった。ここを訪れるなら、真夏の猛暑日がお勧めである。

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坑口に設置された温度計

 さて坑内に入ると、確かに肌寒い。私が訪れたのは、9月28日の雨の降る日だったが、それでも外の気温よりは低かった。

 金香瀬坑道は、金香瀬山という山を掘り進んだ坑道だが、この山全体が巨大な岩山であり、坑道を見学すると、その岩山を人間が掘り進んだという地道な気の遠くなる作業を実感できる。

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坑道内を行く

 ところでこの観光坑道には、各所にマネキンを設置して、江戸時代から昭和時代までの坑道内の作業風景を再現させているのだが、そのマネキンが悉くハンサムである。朝来市では、このマネキン達をGINZAN BOYZという御当地アイドルとして売り出しているという。

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唐箕で送風する作業

 坑道内は、風通しが悪いので、人力で換気する必要があった。江戸時代には唐箕(とうみ)という道具で換気をした。この作業員を手子(てご)と呼んだそうだ。

 江戸時代には、堀大工という作業員が、鑿一本で岩を削りながら鉱脈を探り当てた。

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堀大工の作業の再現

 このような堀大工が鑿一本で掘った跡が、岩壁には残されている。

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手掘りの排水坑の跡

 このように穴を掘って行くと、岩から染み出た地下水が穴の中に溜まっていく。それを樋引人足という作業員が、樋を使って手作業で汲み上げた。

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樋引人足の作業

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江戸時代の手掘りの排水口

 江戸時代には、坑道内を上下に移動する時は、雁木梯子という木柱から作った梯子を使用したが、地下水で常時濡れていたであろうから、足が滑りやすい非常に危険なものだったろう。

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雁木梯子

 又坑内の横の移動は、人が這ってようやく通れる狸掘という穴を利用した。サザエの貝殻に菜種油を入れて、それを燃料にして火を灯して明かりにし、それを頼りに移動した。

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狸掘を通る作業員

 さて坑道をしばらく進むと、鉄柱、鉄板やコンクリートで坑道を支えた場所を通過し、今度は近代的な昭和の作業風景が再現されたエリアに入る。

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鉄柱、鉄板やコンクリートで補強された坑道

 昭和には、ダイナマイトにより鉱脈を爆破し、砕け散った鉱石をスクレーパーという機械で掻いて、井戸と呼ばれる穴に落とした。

 井戸の下には、鉱石を積むためのトロッコ列車が待機していて、鉱石を満載してから出発した。トロッコ列車は、立坑という地上まで鉱石を運ぶ巻揚げ機のある場所まで鉱石を運んだ。

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昭和時代の作業図

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スクレーパーによる作業

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トロッコ列車への積込

 近代に入って、作業が機械化され、生産性が上り、鉱石の生産量も増加しただろうが、その代り鉱山の枯渇も早めたことだろう。

 生野銀山が閉山となったのは、昭和48年であるが、生野の町を散策すると、まだ銀山の記憶が町に生きているのを実感した。

 この鉱山で働いた人たちが、皆物故者となった時が、この鉱山が本当の意味で歴史になる時だろう。

 しかし、日本の発展を支えた作業員たちの仕事については、語り伝えていく必要があるのではないかと思った。

生野銀山 その2

 生野銀山の坑道入口手前に、鉱山資料館がある。

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鉱山資料館

 この資料館には、江戸時代の生野銀山での作業を再現した模型や、江戸時代、明治時代の鉱山関係の文書資料、鉱石、貨幣などが展示されている。

 生野銀山からは、金、銀、銅、亜鉛、鉛、錫などが発掘されたが、それぞれの鉱石の現物が展示されていた。

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銀鉱石

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黄銅鉱

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錫鉱石

 こんな大きな鉱石でも、中に含まれている鉱物は僅かである。鉱物と脈石を分離する選鉱という工程が重要である。

 天保十五年(1844年)に生野銀山の山師によって描かれた「鋪内絵図面」が展示されている。

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鋪内絵図面

 御覧の様に、蟻の巣のように穴を掘り進んでいるが、江戸時代には穿岩機などなく、全て鑿と金槌を使った手掘りであった。気の遠くなるような作業だ。

 資料館で圧巻なのは、江戸時代後期の坑内の作業を15分の1の模型で再現した、生野銀山鉱山模型である。

 この模型では210人の人々が働いているが、実際の鉱山では山中だけで数千人の人間が働いていたそうだ。

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生野銀山鉱山模型

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 模型の地層の中で黒い縞になっているのが鉱脈である。これが人々にとっての宝物である。

 鉱山の作業は、先ず探鉱、そして測量、穴を掘っての採鉱、鉱石の運搬となる。掘り出された鉱石は検査され、選鉱、精錬、鋳造という過程を経て金属になる。

 それ以外にも、様々な仕事がある。坑道を維持するための支柱を設置したり、穴を掘ったら出てくる地下水を汲み上げたり、坑内を換気するために空気を送ったり等々。

 当時は電気がないから、暗い坑内での照明は、サザエの貝殻に入れた菜種油を燃料とした灯火であった。

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地下水の汲み上げ作業

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換気のための送風作業

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採掘作業

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鉱石の運搬作業

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休憩の様子

 菜種油の照明に頼った暗闇の中での過酷な作業である。模型でも、休憩の様子が再現されているのがまだ救いか。

 但し後にも紹介するが、坑道内は、自然現象で年間を通して気温13℃に維持されている。作業をするには丁度良い気温だったのではないか。

 資料館には、江戸時代に坑内の上り下りに実際に使われていた雁木梯子が展示されていた。

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雁木梯子

 こんな細い梯子に自分の身体を預けるのは心もとない。地下足袋は必須だろう。

 江戸時代には、こうして採掘された金銀銅が貨幣として鋳造され、日本の商品経済を支えた。

 館内には、天正年間から江戸時代までの貨幣が展示してある。

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天正時代の大判と天文時代の小判

 天正年間は、まだ日本の鉱山で金銀が採掘され始めて間がないので、豊富に金が採れたことだろう。大判の金の純度も高かったことだろう。

 館内には、生野鉱山で勤務していた方が生野町内で発見した、1億年前の「波の化石」を展示していた。

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1億年前の波の化石

 波が砂に付けた波紋が、そのまま石化したのだろうか。非常に珍しいものだ。

 生野町指定文化財の見石飾幕は、江戸時代後期から明治初期に制作されたものだ。

 この飾幕は、自分たちの鉱山が最高位の鉱山の名称を得た時に、その鉱山から採れた鉱石を山車の上に載せて引き回す際の、山車の飾幕である。

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見石飾幕

 この飾幕で飾った山車に鉱石を載せて引き回す時が、毎日暗い坑内で厳しい作業をする人夫たちにとって、最高に栄誉ある瞬間だったろう。

 生野銀山は、明治時代には宮内省御料鉱山だったが、明治29年に三菱合資会社に払い下げられた。

 三菱は、明治34年に、鉱山の生産設備の動力を火力、水力から電力に切り替えた。

 大正8年(1919年)には、電力需要の増加に伴い、生野水力発電所を新設した。

 平成11年(1999年)に、生野水力発電所の設備更新のため、80年間使用された旧水力発電設備が鉱山資料館に展示されることになった。

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大正7年製作の水力発電設備

 この設備は、大正7年(1918年)に、三菱神戸造船所が製造したものだそうだ。80年間も現役で動き続けた機械というのは素晴らしい。

 私も男の子の例に漏れず、力を生み出す機械が好きだ。

 生野銀山の連載を始めてまだ銀山内部に到達しない。しかしこの銀山には見所が多い。

 後に紹介する明延(あけのべ)鉱山、神子畑選鉱場と、姫路まで鉱物を運んだ銀の馬車道、鉱物を積み上げた船が出帆した飾磨港(姫路港)とセットで、生野銀山がもっと注目される日がいつか来るだろう。

生野銀山 その1

 兵庫県朝来市生野町小野には、国指定史跡の生野銀山がある。

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生野銀山

 生野銀山は、大同二年(807年)に初めて発見されたと伝えられる。

 元禄年間に成立した「銀山旧記」によれば、天文十一年(1542年)に、山名祐豊が生野銀山を開鉱し、古城山麓に生野城を建てて銀山を管理するようになった。

 山名氏衰退後は、竹田城主太田垣氏、織田氏豊臣氏、徳川氏と支配者が変った。銀山が莫大な富を生むため、豊臣、徳川政権は銀山を直轄地とした。

 明治維新後、銀山は明治政府の直轄地となる。

 生野銀山の入口には、菊の御紋の入った門柱がある。

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生野銀山門柱

 この門柱は、生野銀山の技師としてフランスから招かれて、生野銀山の責任者となった地質学者コワニエが、明治9年に当時の工場正門の門柱として製造したもので、昭和52年に現在位置に移転された。

 門柱に輝く菊の御紋が、ここが政府直轄地だったことを示している。

 門柱の前には、明延1円電車が展示されている。

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明延1円電車

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明延1円電車客車

 昭和4年に、兵庫県養父郡大屋町の明延鉱山と朝来郡朝来町の神子畑選鉱場の間の鉱石運搬のため、明神電車が開通した。

 昭和20年に、従業員と家族の運搬のため、鉱石電車に客車が連結された。当初は運賃50銭だったが、昭和27年に料金が改訂され、1円となった。

 昭和62年3月の明延鉱山の廃鉱、明神電車の廃線まで、料金はずっと1円に据え置かれた。

 なのでこの電車は、明延1円電車という通称で呼ばれ、地元民から愛されていた。

 一度動く1円電車に乗ってみたいものだ。

 さて門柱を潜って左手を見ると、生野鉱物館がある。

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生野鉱物館

 生野鉱物館は、生野銀山の歴史を紹介するパネルや、様々な鉱物を展示している。

 生野銀山は、島根県石見銀山と並んで、中世、近世には日本有数の銀山であった。慶長二年(1597年)には、生野銀山が産出した運上銀は、全国の78パーセントを占めたという。

 生野銀山からは、銀だけでなく、銅、亜鉛、鉛、錫なども産出された。

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生野銀山産出の黄銅鉱

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生野鉱床から発掘された鉱石

 日本の鉱脈鉱床は、日本列島がまだユーラシア大陸の一部だった白亜紀末(約8000万年ころ)に形成されたようだ。

 戦国時代、安土桃山時代、江戸時代にかけて、日本は世界有数の銀産出国となった。日本は昔は資源小国ではなかったのだ。

 しかし採掘が進むにつれて鉱床は枯渇し、昭和48年に生野銀山は閉鉱となった。

 生野鉱物館を出て進むと、生野代官所の門を模した生野銀山の入口がある。

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生野銀山入口

 入口から入って右手には、かつての坑道の跡があり、中に鉱業守護の神様である金山彦神を祭った山神宮分社がある。

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山神宮分社

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 この山神宮分社のある旧坑は、江戸時代末期に手掘りで掘られたものである。付近の岩盤に掘られた無数の穴は、穿岩機によって試し掘りされたものだという。

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試し掘りされた穴

 ところで、上の写真に鑿を用いて岩盤に穴を掘っているマネキン人形が写っているが、生野銀山では、各所でマネキン人形を用いて、かつての坑内の作業を再現している。

 これから少しづつ、日本に莫大な富を齎した生野銀山を紹介していきたい。

生野の変

 文久三年(1863年)10月11日、尊王攘夷派の元福岡藩士・平野国臣長州藩士南八郎(本名河上弥市)らは、いわゆる七卿落ちで長州に落ち延びた公卿の澤宜嘉を総帥に迎え、倒幕のため但馬国生野の地で挙兵する。

 翌12日、志士達は生野代官所を襲撃し、無血占拠した。彼らは但馬の農民兵に対し、決起するよう檄を飛ばし、その結果2000人の農民兵が生野に集まった。しかし鎮圧に来た姫路藩豊岡藩出石藩の藩兵の前に志士達は動揺し、澤は逃亡、その後落伍者が相次ぎ、あっという間に部隊は四散した。

 南八郎ら13名の志士達は、近くの山口村妙見山麓で自刃して果てた。

 これを生野の変という。

 朝来市口銀谷には、生野代官所の跡地があり、そこに生野の変の志士たちの決起を記念する生野義挙碑が建っている。

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生野代官所

 生野代官所跡は、天文十一年(1542年)に但馬国守護山名祐豊が、銀山経営の拠点とするために築いた生野城の跡地でもある。

 生野城は、三層の天守閣、隅櫓、外堀を備えた平城だった。

 その後、生野の地の支配者は、太田垣、豊臣、徳川と移った。寛永六年(1629年)に生野城は取り壊され、幕府直轄の代官所が置かれた。

 平野、南らが襲撃したのは、この代官所である。

 生野の変では、幕藩体制はいささかも動揺しなかったが、生野の変は、明治維新後、大和国天誅組の変と並んで、明治維新の先駆けとして評価されるようになった。

 昭和15年皇紀2600年の年に、生野代官所の跡地に生野義挙碑が建立された。

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生野義挙碑

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 ちなみに代官所は、明治2年に生野県庁となった。明治4年、生野県が豊岡県と合併すると、生野県庁舎は取り壊された。

 城壁と外堀は残されたが、それも大正末年に全て取り壊された。

 平野らは、生野代官所を占拠する前日、口銀谷の延応寺で挙兵した。

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延応寺本堂

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 延応寺は、延応元年(1239年)に創建された、生野町内では最も古い真言宗の寺院である。

 本堂の前には、樹齢1000年以上と言われる兵庫県天然記念物の大ケヤキがある。

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ケヤキ

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 大ケヤキの幹には、びっしり苔が生えている。傾いた木が倒れないように、鉄の支柱が支えている。

 この大ケヤキは、平野ら尊王攘夷派志士の挙兵の姿を見送ったことだろう。

 口銀谷から国道312号線を北にしばらく走ると、朝来市山口字上山に至る。

 ここに、生野の変の首謀者、南八郎らが自決した跡地に建つ、山口護国神社がある。

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山口護国神社

 南八郎は、元長州藩士で、二代目奇兵隊総督を務めた人物である。

 志士達が生野代官所を占拠した後、出石藩が出兵したことを聞いた南ら18名は、出石藩兵を迎え撃つため、生野の北にある山口村の妙見山に布陣する。

 しかし、10月13日夜から14日朝にかけて、勝ち目がないと悟った生野代官所の志士達は、散り散りとなった。

 14日午後、南ら13人は、生野の本陣に合流しようとしたが、離反した農民兵たちがしきりに発砲してくるので撤退した。南らは妙見山に戻り、山伏岩で自刃した。

 山口護国神社には、南八郎ら殉節志士の墓石や墓誌が建っている。

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殉節志士之墓

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 慶応四年(1868年)に建てられた殉節志士之墓の題字は、西園寺公望が書いたものである。

 神社のすぐ横に、南らが自決した山伏岩がある。

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山伏岩

 生野の変の志士達は、日本の正統な統治者は天皇で、外国人が日本の国土に出入りすることは、神州を汚す許しがたい事と思っていた。

 そういう思想を持った志士達からすれば、天皇の権力を横領し、外国と条約を結んで交易を開始した徳川幕府は、許しがたい歪んだ政府であった。

 生野の変の後に成立した明治政府は、外国との交易がなければ国を発展させることが出来ないことを理解しており、幕府が外国と結んだ通商条約を継承した。生野の変の志士達からすれば、明治政府の政策の半分は不本意なものだったろう。

 歴史を眺めていると、人間社会が様々な迂路を辿っても、最後に勝つのは経済的な繁栄を求める路線であったことに気が付く。どんな思想も、この路線の前に敗れ去っている。

 豊かで平穏な生活を送りたいという人間の気持ちには、どんな先鋭な思想も勝てないと見える。

口銀谷

 私は、神戸市西区の太山寺を訪問して、播磨の史跡巡りを終えたが、これはまだ長い旅路の一歩に過ぎず、これから播磨に隣接する国々の旅が続く予定である。

 播磨に隣接する国は、摂津、丹波、但馬、因幡、美作、備前、淡路の7カ国があるが、この内、備前、美作、摂津には既に足を踏み入れている。

 これから、これら7カ国の史跡を巡っていくことになる。

 今日は、初めて但馬の史跡を紹介する。但馬は、兵庫県北部を占めるが、同じ兵庫県でも、北と南では文化、風土、人情が大きく異なる。

 今日紹介するのは、兵庫県朝来市生野町の口銀谷(くちがなや)という街並みである。

 生野は、但馬の最南端に位置して、播磨と隣接し、但馬の玄関口と呼ばれる地域である。

 戦国時代に開鉱した生野銀山で名高い町だ。銀山のある谷間の手前には、銀山で働く人たちが居住する町が開けた。それが口銀谷である。

 口銀谷の街には、土壁、漆喰、格子窓の伝統的和風建築群が並び、それらの建物は、鉱滓(カラミ石)を石垣に使っているのが特徴である。

 生野銀山は、昭和48年に閉山した。口銀谷は、今では銀山が活況を呈していた時代に建てられた古い建物群が並ぶ、静かな落ち着きある町である。

 口銀谷の生野小学校の南側にある黒漆喰の家は、大正期の材木商の邸宅だが、現在は資料館・生野書院として、銀山や代官所の資料を展示している。

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生野書院

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生野書院の門

 私が訪問した日は、生野書院は休館日であった。

 銀山は莫大な利益を生むため、江戸時代には、生野は幕府の直轄地であったが、明治初年には明治政府が銀山を経営した。

 現在の生野書院の門は、官営生野銀山の初代鉱山長朝倉盛明の官邸の門を、平成3年に移築したものである。約120年間、歴代鉱山長邸の門として使用されたものだ。

 朝来市役所生野支所の横には、国登録有形文化財となっている桑田家住宅がある。

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桑田家住宅

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 桑田家住宅は、江戸時代後期に建築された、旧地役人邸宅である。煙出しを持った中二階の母屋と土塀の上には、生野瓦が載っている。土塀の生野瓦は江戸時代のものである。

 内部は非公開であった。

 口銀谷の町中を散策すると、生野クラブと称する古い建物があった。

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生野クラブ

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 生野クラブは、明治19年に大山師の邸宅として建設され、明治21年には、有栖川宮熾仁親王がご宿泊になったという。

 現在は民間会社が買い上げ、保養地として使用されている。袖壁や卯建(うだつ)が現存する建物である。

 口銀谷の町を西に行き、銀山方面に近づくと、鉱山の職員住宅として建てられた社宅群がある。

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生野鉱山社宅

 生野鉱山は、明治に入って宮内省御料鉱山となったが、明治29年には、三菱鉱業株式会社に払い下げられた。

 鉱山社宅は、明治9年に建てられたものだが、大正時代になって、三菱鉱業によって改築された。

 社宅は全部で12棟現存するが、その内甲7号棟は、志村喬記念館となっている。

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生野鉱山社宅甲7号棟

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 志村喬は、昭和を代表する映画俳優だが、生野鉱山の社宅で生誕した。志村の生家はもう取り壊されてしまったが、その雰囲気を残す甲7号棟が、志村喬記念館として公開されている。私が訪れた日は閉館日であった。

 かつて、生野鉱山の鉱山本部から旧生野駅までは、電気で走るトロッコ列車が走っていた。

 運行されていたのは、大正9年(1920年)から昭和30年(1955年)までの35年間である。

 生野鉱山や近隣の明延鉱山から採掘された鉱石を生野駅まで運ぶためのトロッコ列車であった。

 列車は、とうの昔に廃線になっているが、口銀谷の市川沿いの土手に、線路の軌道跡が残っている。

 軌道を支える、アーチを持つ石積み擁壁が、独特の景観を生み出している。

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トロッコ列車軌道跡

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 鉱山が栄えていたころ、この石積み擁壁上の軌道を、鉱石を満載した電車が、一日何往復も走っていたことを想像した。

 昭和生まれの日本人が、日本の古き良き時代として懐古するのは、日本の工業が最盛期だった時代である。

 そんなころには、汗を垂らして仕事をした後に社宅に帰って来た鉱山職員が、元気にはしゃぐ子供たちに、今日学校であったことなどを聞いたものだろう。