金香瀬坑道から出て、坑道の裏山に点在する露頭群を巡り歩くことにする。
露頭とは、地表に露出した鉱脈のことで、江戸時代までは、こうした露頭を掘り進んで鉱石を掘り出した。
金香瀬坑口のすぐ側に不動の滝と呼ばれる滝が滾り落ちている。中々の落差のある滝だ。不動の滝と言うくらいだから、昔行者が修行していた滝かも知れない。
この不動の滝を見下ろす場所に、滝不動と呼ばれる不動明王を祀るお堂がある。
このお不動さんは、織豊時代から坑内安全と鉱山繁栄を祈念するため、信仰されていたものらしい。
滝不動を過ぎると、生野代官所の金香瀬番所の門を復元したものが建っている。昔この辺りに番所が建っていたものだろうか。
門を潜って歩いて行くと、あちこちに巨岩が露出した独特な景観が見えてくる。私が訪れた日は、雨が降り始め、靄がかかって、余計幻想的に見えた。
しばらく行くと、「慶寿ひ」と呼ばれる、発見された永禄十年(1567年)ころから幕末まで、約300年間採掘され続け、純度の高い銀を生み出した鉱脈の跡が見えてきた。
鉱脈を露天掘りした跡は、慶寿の堀切と呼ばれ、朝来市指定文化財となっている。
ここからは、一時は「土砂の如く」銀が産出されたらしい。最も深い所で、200メートルは掘られているそうだ。
また、周辺の岩壁のところどころに、徳川時代に手掘りで掘られた坑道が口を開けている。
また、金香瀬鉱山一帯は、鉱脈が出来た後に断層が発生し、元々の鉱脈が分断されてずれてしまったらしい。
大丸坑口の傍には、日本最大規模の粘土断層が顔を覗かせている。
大丸坑口は、金香瀬坑道とつながっているそうだ。
大丸坑口の道を挟んで反対側には、金盛坑口が口を開けている。
金盛坑口という名前から察するに、ここからは金が大量に産出されたのではないか。
岩盤を手で掘った痕というものは、不規則にぎざぎざしていて、どことなく温かみがあり、見ていて心が落ち着く。
今回でようやく生野銀山のシリーズは終結する。この鉱山から生み出された富は、安土桃山時代から江戸時代にかけて、日本の商品経済の発展に大きく寄与したことだろう。
江戸時代の商品経済の基盤の上に、明治以降の日本経済が乗っかっていることを思えば、今の日本人は、この鉱山とそこで働いた人々に大きな恩を蒙っていると言える。
先人の労働の上に、現代人の生活が成り立っていると思えば、我々も人生を無駄に出来ないという気持ちになる。