護国山曹源寺 後編

 曹源寺の裏山には、三重塔が聳えている。境内に入ると見えないが、遠く離れた所からなら、その存在を確認することが出来る。

 裏山への登山道を暫く歩くと、三重塔が見えてくる。私が史跡巡りで訪れた、16番目の三重塔になる。

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三重塔

 三重塔の手前には、何故かフェンスと鉄条網があって、近寄ることが出来なくなっている。

 丁度フェンスで二分されているが、三重塔の前には巨大な岩がある。古代に磐座として信仰されたことがあったのではないかと想像される岩だ。

 三重塔と巨岩という組み合わせが、中々面白い。

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三重塔

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 この三重塔は、曹源寺を訪れた観光客も見過ごすことが多いと思われるほど、境内から離れた山中にひっそりと建っている。

 三重塔にしろ、五重塔にしろ、何のために仏塔があるかと言うと、遠くから眺めた人に、「ここに仏様がいるよ」と伝えるためであると思う。

 三重塔の横の巨岩の上から見返ると、岡山平野南部の町々が見下ろされる。

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三重塔の辺りからの眺望

 彼方に見える山々は、児島湾を挟んだ向うにある児島半島の山々である。

 さて、麓の曹源寺境内に戻り、本堂の裏にある岡山藩主池田家墓所を見学しようとしたが、扉が閉められ、立入禁止となっていた。

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岡山藩主池田家墓所表門

 仕方なく、焼杉で造られた塀の隙間から墓所へ至る石段を撮影した。

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池田家墓所へ至る石段

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 石段の両脇にある蒲鉾型の石垣は、小ぶりではあるが、閑谷学校石塀や、大多府島の元禄防波堤と共通の形であり、津田永忠が施工したものだろうと思われる。

 曹源寺が建てられた時、真言宗天台宗、浄土宗、日蓮宗塔頭が建てられたが、今現存するのは天台宗天台寺日蓮宗大光院である。その内天台寺は、修理中で立入ることが出来なかった。

 大光院には、日蓮宗のお題目である「南無妙法蓮華経」を彫った笠塔婆が二基ある。髭題目と呼ばれる、髭が伸びたような字体で書かれた題目石である。

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大光院本堂

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大光院庫裏

 一基目の題目石は、境内に建っていて、康永四年(1345年)の銘があるものである。この康永四年法華題目石は、岡山県重要文化財である。

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康永四年法華題目石

 もう一基の応永十八年(1411年)の銘のある比丘尼妙善題目石は、大覚堂という小さなお堂の中にあって、拝観できなかった。

 比丘尼妙善題目石は、岡山市重要文化財である。

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比丘尼妙善題目石を収める大覚堂

 大光院にある題目石二基は、元々は備前国御津郡一宮村にあった妙善寺に置かれていたものである。

 妙善寺は、南北朝の争乱で九州から攻め上がって来た足利尊氏軍と南朝方の新田義貞軍が、備中福山城で衝突した福山合戦での戦死者を、大覚大僧正が供養した場所で、康永四年法華題目石もその供養のために建てられたものである。

 比丘尼妙善題目石は、比丘尼妙善が応永十八年に大覚大僧正の聖跡を弔って建てたものだとされている。

 寛文七年(1667年)の岡山藩の寺社整理によって、妙善寺が廃寺になった際に、題目石二基も大光院に移転されたそうだ。

 曹源寺は、未だ観光地化されていない、静けさに包まれた仏道修行に相応しい寺であった。こういう寺が後世まで残ることを心より望むものである。

 

護国山曹源寺 中編

 本堂前の石畳を東に進むと、僧侶達の生活空間である庫裏や方丈がある。

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庫裏

 私が曹源寺を訪れたのは、もうすぐ日暮れがやってくる時間帯だった。夕飯の支度中なのか、庫裏からは味噌汁の香りが漂って来た。

 庫裏の前には、「浴室」と書いた木札が下がった建物がある。修復工事中であった。

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浴室

 江戸時代から浴室として使われ続けてきた建物だろう。中を見てみたい。

 庫裏には、白人系の禅僧が出入りしている。国際色豊かな禅寺だが、日本の禅文化に憧れて来日した外国出身の僧侶の方が、日本人よりも江戸時代のままの禅寺の生活を残そうと努力するのではないかと思ってしまう。

 少し行くと、方丈の玄関があるが、これも簡素な江戸時代のままの佇まいだ。

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方丈の玄関

 拝観料を箱に入れて、津田永忠が造った池泉回遊式の庭園を見学する。

 池の対岸には、名石を建てた築山があり、こちら側には小さな舟を繋いでいる。

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池泉回遊式の庭園

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 池の奥には、枝垂桜がある。花見の季節には、さぞ美しい姿を見せてくれるだろう。

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池と小舟

 この池泉式庭園に接するように、方丈の座敷がある。僧侶達にとって、方丈から眺めるこの庭園は、僧院の生活の中の目の娯しみの一つだろう。

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方丈

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方丈の奥の間

 方丈には、渡り廊下で接続している奥の間がある。恐らく寺院の住職が居住しているのだろう。

 声一つない静かな空間だ。

 方丈の脇には、竹垣で囲まれた茶室がある。今は使われることは稀だろうが、江戸時代には藩主がここを訪れ、庭園を眺めながら茶を喫したことであろう。

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茶室

 さて、再び本堂の前に戻り、西を見ると、石畳の向うに経蔵がある。

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石畳と経蔵

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 経蔵の中には、お経を収める回転式の書棚である転輪蔵があり、その前に転輪蔵を発明した中国南北朝時代の居士、傅大士の像が安置してある。

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転輪蔵と傅大士像

 経蔵の背後には、仏足石と印度風の石塔が建っている。

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仏足石と石塔

 この石塔と傅大士像を見ると、仏教が印度から中国を経て日本に伝わってきたことが実感できる。

 経蔵の隣には、開山堂がある。開山の祖師などを祀っているのだろう。

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開山堂

 禅寺の生活は簡素で静かなものだろう。ひたすらに坐禅を組み、心を澄み渡らせた時に目に映る風景は、元の風景と同じでも、違って見えるものだろうか。

護国山曹源寺 前編

 岡山市中区円山にある護国山曹源寺は、元禄十一年(1698年)に、岡山藩主池田綱政が、祖父信輝、父光政の菩提を弔うために建てた臨済宗妙心寺派の禅寺である。

 寺院の裏手には、岡山藩第四代藩主綱政から第十二代章政までの歴代藩主やその近親者を葬った、国指定史跡岡山藩主池田家墓所がある。

 曹源寺は、綱政が、家臣上坂外記に命じて造営させ、絶外和尚を開山僧に迎えた。

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曹源寺参道

 曹源寺の参道脇には、松並木が続く。この松並木は、岡山県郷土記念物となっている。

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曹源寺

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総門

 曹源寺は、壮大な伽藍を有しており、境内には池泉回遊式の庭園もある。

 参道から総門、山門、本堂までが一直線に並んでおり、石畳が各建物を繋いでいる。よく整備が行き届いた、美しい寺である。

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山門まで続く石畳

 石畳とそれを取り巻く植木が整然としていて、一つの小宇宙を形成しているかのようだ。

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山門

 岡山藩が藩主の菩提寺にしただけあって、建物は壮麗だ。山門は、備前国の寺院の山門の中では最大のものだろう。

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山門の扁額

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山門の柱

 山門を潜って見返ると、黒光りする門に緑の葉が映えて美しい。

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裏から見返った山門

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山門下の石畳

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 この寺院の特徴は、何といっても緻密に組まれた石畳だ。曹源寺の庭園は、岡山藩の大土木工事家、津田永忠が手掛けたものだが、この石畳も恐らく津田永忠が造ったものだろう。

 曹源寺の石畳には、大多府島の元禄防波堤や、閑谷学校石塀など、備前各地に残る津田永忠作の石造物と似通った緻密さと堅牢さを感じる。

 この灰色の緻密な石畳と、緑鮮やかな常緑樹、黒光りする禅寺建築が醸し出す静かで厳かな空気こそ、曹源寺の真骨頂だ。

 山門を潜り、本堂に向かう。

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山門から本堂への石畳

 山門から石畳の上を歩くと、壮大な本堂の展望が開ける。本堂は、寺院建築としては、備前第一の建造物だ。

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本堂

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本堂の扁額

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本堂の彫刻

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 本堂の周囲の砂地には、箒目が入れられ、枯山水のような景色だ。

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砂地の箒目

 曹源寺は、外国からの修行者を数多く受け入れている。

 住職を除けば、他の僧侶は全て外国人で、髪を剃った碧い目の僧侶が、境内を歩いている。

 外国から本物の禅を求めて来日した人が、僧侶となって修行を続けているのだと思われる。

 ここに眠る歴代岡山藩主は、外国からやって来た禅僧が行き交う今の曹源寺を眺めて、さぞや目を白黒させていることだろう。

岡山市 大福寺 徳與寺

 少林寺から南に歩き、岡山市御成町にある真言宗の寺院、聖満山法城院大福寺に行く。

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大福寺

 大福寺は、天平勝宝年中(749~757年)に報恩大師が開いた備前四十八ケ寺の一つで、当初は備前国和気郡伊部村にあったという。

 寛永年中(1624~1644年)に、岡山藩の寺社整備の一環で、上道郡門田村に移り、更に現在地に移転した。

 ご本尊は阿弥陀三尊像で、ここに祀られる弘法大師像は藩主池田綱政の世子病気平癒の礼像であったそうだ。

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大福寺薬医門

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 綱政公以降、岡山藩歴代藩主の御願所となり、享保十七年(1732年)に薬医門が、安永元年(1772年)に本堂と毘沙門堂が、寛政十一年(1799年)に客殿庫裏等が建てられた。

 昭和20年6月29日の岡山大空襲により、堂舎の大半が焼失した。現在江戸時代の建物で残っているのは、薬医門と客殿、庫裏、釣屋、土蔵である。

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客殿

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本堂

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大師堂

 大師堂には、池田綱政公のお礼像である弘法大師像が祀られている。

 境内で一際目立つのは、寛政九年(1797年)に建てられた大地蔵である。

 この大地蔵には、岡山大空襲の際の焼け焦げた跡が残っている。

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大地蔵

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寛政九丁巳歳の銘

 大地蔵の蓮華台の下が黒くなっているが、これが空襲の際の焦げ跡だろう。

 境内には、三面大黒天が祀られている。

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三面大黒天

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 三面大黒天は、正面に大黒天、右面に毘沙門天、左面に弁財天の3つの顔をもつ合体神だそうだ。
 正面の大黒天は財産の神、右面の毘沙門天は戦いの神、左面の弁財天は美と才能と学問の神で、現世での成功をもたらしてくれる必要不可欠なものを備えているのが、この三面大黒天だそうだ。
 大福寺の三面大黒天は、江戸時代に作られたものである。 

 大福寺から東に歩いた徳吉町1丁目に、真言宗の寺院、能満山徳與寺がある。

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徳與寺

 徳與寺の寺伝はよく分からないが、虚空蔵菩薩十三参りと針供養で有名な寺のようだ。

 境内は割合に狭く、大きな堂舎は存在しない。

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薬師堂

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観音堂

 このお寺は、女性の技芸や裁縫の神様の淡嶋大明神を祀っている。

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淡嶋大明神の拝殿

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淡嶋大明神の本殿

 淡嶋大明神の拝殿には、「南無淡嶋大明神」と書いた板が下がっていた。南無とは、仏に帰依する時に使う言葉だが、神名の前に南無を冠するのは初めて見た。これも神仏習合の姿だろう。

 淡嶋大明神の本殿の隣には、針塚がある。

 さて、徳與寺には、宇喜多直家の妻で、宇喜多秀家の母である、お福(お鮮)の供養塔と伝えられる五輪塔がある。

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お福の方供養塔の説明板

 お福の方は、美作勝山城主三浦貞勝の妻だったが、勝山城が三村家親の手により陥落すると、備前に落ち延びて宇喜多直家と再婚し、秀家を生んだ。

 直家没後、秀吉に見初められて大坂城に引き取られたという。好色な秀吉の側室になったという説もあるが、定かではない。

 説明板には、「岡山のクレオパトラ」だったとあるが、相当な美人だったのだろう。

 宇喜多秀家が秀吉に可愛がられ、五大老に抜擢されたのも、お福の方の影響があったのかも知れない。

 お福の方の供養塔は、梵字ではなく「妙法蓮華経」と刻まれた五輪塔で、その下に「法鮮」と刻まれている。

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法鮮銘五輪塔

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 法鮮銘の脇には、文禄三年(1594年)十二月十一日というお鮮の命日が刻まれている。しかし秀家の生母は、慶長五年(1600年)以後も生きていたとする史料もある。

 近年この五輪塔は、秀家の生母ではなく、直家の甥である宇喜多詮家(坂崎直盛)の妻の供養塔であるとの説が出ている。

 地元の岡山市民からすれば、岡山城下を整備した宇喜多秀家の生母の供養塔であって欲しいと願うところだろう。

 供養塔にしろ墓にしろ、そこに名前や戒名が刻まれた人の縁者が亡くなると、他に記録が無ければ、その墓の所縁は分からなくなってしまう。

 墓が建てられた時の墓誌銘というものは重要であると思う。

岡山市 少林寺 法輪寺

 世に言う赤穂事件と言えば、忠臣蔵で有名な元禄赤穂事件だが、赤穂藩の歴史上には、もう一つの赤穂事件がある。

 正保二年(1645年)、初代姫路藩主だった池田輝政の六男で、赤穂藩主となっていた池田輝興が突如発狂して、正室や侍女を斬り殺してしまった。これを正保赤穂事件と言う。

 輝興は、幕府によって赤穂藩主を改易され、甥で岡山藩主であった池田光政に身柄を預けられることになった。

 輝興は、事件の2年後に病没した。

 輝興が赤穂に菩提所として建立した長松山盛岩寺が、輝興の没後の万治三年(1660年)、現在の岡山市中区国富2丁目に移転され、輝興の法名に因んで少林寺と改名された。

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国富山少林寺

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 輝興の墓地は、岡山県備前市吉永町和意谷の岡山藩主池田家和意谷墓所にある。

 少林寺臨済宗の寺院で、山門を潜ると大きな本堂が目に入った。

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本堂

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 本堂は、禅宗寺院の本堂らしく、広々として堂々としている。開け放たれた本堂の中を、お寺の娘さんと思われる小学生くらいの女の子が走り回っている。女子は、その後友達らと寺院の裏山の方へ行ってしまった。

 本堂裏の庭園を整備していたお寺の住職と思われる方が、「おーい、遠くへ行っちゃいけんよー」と声をかけていた。

 少林寺には、元禄十二年(1699年)に築庭された小堀遠州流の庭園がある。

 私が塀の外側から、庭園を眺めていると、その方が「どうぞお入りください」と言って下さった。

 私はお言葉に甘えて庭園を拝観させて頂くことにした。

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少林寺庭園

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 背後の操山を借景とした静かな庭園である。背後の山とつながっているかのように見える、なだらかな斜面が、緑色に濁った池まで続いている。

 この庭園は、約320年前に造られたものである。

 岡山藩筆頭家老伊木忠澄は、隠居後三猿斎と号し、この庭園に三猿堂という茶室を設けて、裏千家流の茶を楽しんだという。

 320年以上庭園を維持してきた労力は並大抵のものではないだろう。歴代住職に頭が下がる思いだ。

 少林寺には、木造五百羅漢像を祀る羅漢堂があったそうだが、昭和14年の火災で焼失してしまった。

 今は、羅漢堂の礎石のみが並んだまま残されている。

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羅漢堂の礎石

 さて、少林寺から北に約200メートル歩くと、真言宗の寺院、勝鬘山法輪寺がある。

 宇喜多秀家は、天正年間(1573~1592年)に、岡山城の移転改築と城下町建設のため、多くの大工を城下に呼び寄せた。

 そんな大工達の氏寺として、大工町(現岡山市北区東中央町)に大円坊という寺院が建立された。

 大円坊には、その後聖徳太子を祀るようになり、真言宗善通寺派大本山随心院の末寺となって、法輪寺と改名した。

 法輪寺は、享保年間(1716~1736年)に現在地に移転したという。

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法輪寺鐘楼門

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 法輪寺の堂舎は、その後の火災でほとんど焼失してしまったが、唯一鐘楼門だけは、享保年間の移転時から残っている建物であるそうだ。

 龍の彫刻が見事である。

 境内に入ると、聖徳太子を祀る本堂や、弘法大師を祀る大師堂があるが、どれも新しそうな建物である。

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本堂

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大師堂

 境内で昔からあったと思われるものは、お地蔵様を祀る地蔵堂と中の石仏であった。

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地蔵堂

 こういう風に、小さな堂にお地蔵様が祀られている風景は、日本のどこに行っても見ることができる。

 お地蔵様は、大地が捨てられた糞尿すらも受け止める如く、多くの衆生を受け止める包容力を持った仏である。

 今回紹介した寺院は、正保赤穂事件の当事者池田輝興にゆかりある少林寺と、岡山城を建築した大工達にゆかりある法輪寺であったが、地域のさほど著名でないお寺にも、地元の人もほとんど知らない歴史的背景があるものだ。

 町にある小さなお寺やお堂も、なかなか打ち捨てておけない物語を秘めている。

禅光寺安住院

 操山は、尾根が東西に長く伸びた山だが、山裾に多数の寺院が建っている。

 今日紹介するのは、そのうちの一つ、岡山市中区国富3丁目にある、瓶井(みかい)山禅光寺安住院である。

 禅光寺は、天平勝宝年間(749~757年)に報恩大師が制定した備前四十八ケ寺の一つで、現在は真言宗の寺院である。

 禅光寺は、最盛期には十数院の塔頭を有していたが、安住院はその本院だった。江戸時代後期に寺勢が失われ、今は安住院と普門院の2つの塔頭が残るのみである。

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仁王門

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仁王像

 朱色の禅光寺仁王門は、室町時代中期の建築で、岡山県指定重要文化財である。岡山県下の楼門の中では最古の部類に属する。

 仁王門を潜って右に狭い道を進むと、禅光寺の現存する塔頭の一つである普門院がある。

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普門院

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 普門院には、岡山市指定文化財の青銅孔雀文磬がある。磬(けい)とは、への字型をした板で、吊り下げてバチで叩いて音を出す楽器である。青銅孔雀文磬は、両面に孔雀文を陽鋳し、意匠・造形とも優れた作品であるという。

 仁王門を潜って参道を真っすぐ進むと、左手に安住院がある。

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安住院

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鐘楼

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 安住院の道路に面した境内表側には、白色の石造の土台に載った鐘楼がある。境内に入って、鐘楼の右肩越しに山の方を見ると、後で紹介する多宝塔が木々の間に頭を覗かせている。

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山上の多宝塔

 この多宝塔は、岡山後楽園からも遠望できるそうだ。後楽園の借景として利用されており、「見返りの塔」と呼ばれている。

 安住院本堂は、慶長六年(1601年)に小早川秀秋によって再建された。

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本堂

 向拝、軒、内部入側廻りは江戸時代後期の改修を受けているが、基本的に桃山時代様式の中世密教本堂の形式を良好に残している貴重な建造物で、岡山市指定文化財になっている。

 本堂は、元々今の地から約200メートル坂を上がった古観音堂のある場所にあったが、正月修正会を行うため、寛政十二年(1800年)に現在地に移転された。

 ご本尊の木像毘沙門天立像は、平安時代中期の作で、中世には戦勝の神として武将の祈願が厚かった。これも岡山市指定重要文化財である。

 本堂の隣には薬師堂があり、その隣には大師堂がある。

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薬師堂

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大師堂

 大師堂の内部を観ると、弘法大師像を中心に、向かって右に胎蔵曼荼羅を、左に金剛界曼荼羅をかけており、真言宗で言うところの生身の大日如来たる大師の姿であった。

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弘法大師像と胎蔵・金剛界曼荼羅

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 さて、安住院の正面にある瓶井山の上に建つ多宝塔の下まで行って見た。

 私が史跡巡りで訪れた8番目の多宝塔である。

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多宝塔

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 この多宝塔は、元禄年間(1688~1703年)に岡山藩主池田綱政が、後楽園の借景にするために着工を命じ、次の藩主池田継政の時に完成した。

 宝形造、本瓦葺の二層の塔婆で、総高約20メートルである。内部には須弥壇を設け、大日如来坐像を安置している。

 この多宝塔は、岡山県指定重要文化財となっている。

 宗教的必然ではなく、最初から岡山後楽園の借景にするために藩主によって造られた塔のようだ。となると、この多宝塔も後楽園の一部ということになる。

 さて、私が安住院を訪れたのは、彼岸のころで、安住院の墓地にも墓参の人々の姿が多数見えた。

 墓地を歩いていると、岡山を代表する文学者、内田百閒の墓の案内板があり、ここに百閒が眠っていることを知った。

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内田百閒の墓の案内板

 内田百閒(ひゃっけん)は、明治22年から昭和46年までを生きた岡山市出身の小説家・随筆家で、本名は内田榮造という。号の百閒は、岡山を流れる百間川から採られている。

 百閒は夏目漱石の門下生で、「冥途」「百鬼園随筆」「阿房列車」などで有名だが、私は残念ながら一作も読んだことがない。

 昔三島由紀夫の「作家論」を読んだが、その中で三島が百閒のことを稲垣足穂と並んで畏敬すべき作家として扱っていたことが記憶に残っている。

 百閒と言えば、晩年に芸術院会員に推薦された時、「嫌だから嫌だ」と断ったことが有名だが、単なる文壇の重鎮ではない、子供らしさのあった人なのだと思う。

 安住院の古観音堂の前に内田家4代の墓があり、その中に百閒の墓があった。

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観音堂

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内田家四代の墓。一番手前が百閒の墓。

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 墓石を見ると、本名内田榮造の横に慎ましく「百閒」と彫られている。百閒が遺言して彫らせたものか、遺族が彫らせたものかは分からない。

 私は何故か文学者の墓や居宅跡を詣でるのが好きである。読んだことのない作家のものでも訪れるのが好きだ。

 文章だけで世を渡った人の生きた痕跡というものは、何だか奥ゆかしく感じられるのだ。

明禅寺城跡

 恩徳寺の裏手にある操山の尾根上にあるのが、明禅寺城跡である。

 山の全貌は、北側の百間川の河川敷辺りから目にすることが出来る。

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明禅寺城跡のある操山

 明禅寺城跡に行こうと思えば、山の北側の墓地を抜けて登る道を行くか、恩徳寺の北側の畑を抜けたところにある登り口から登るかのどちらかである。

 私は、墓地を抜ける道から登って行った。

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明禅寺城跡登り口

 私がここを訪れたのは、丁度お彼岸のころで、墓参りをしに来た人たちと多くすれ違った。

 明禅寺城は、岡山平野に進出しようとしていた宇喜多直家が、永禄九年(1566年)に築いた山城である。

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明禅寺城跡に残る石垣

 備中高松城に拠点を持つ三村家親は、毛利氏を後ろ盾に備中国を制圧し、備前、美作に進出し始めた。そして、浦上氏の家臣で邑久郡を領する宇喜多直家と衝突するようになった。

 宇喜多直家は、希代の謀略家である。正攻法で三村に勝てぬと判断すると、永禄九年(1566年)、対立する三村家親の下に密偵を放ち、短銃で暗殺する。

 直家は、三村への備えに明禅寺城を築くが、親の仇への復讐を誓う家親の跡継ぎ三村元親に一旦破れて城を奪われてしまう。

 しかし翌年永禄十年(1567年)、宇喜多勢5000人は、2万の大軍を有する三村元親勢を巧妙に領内に誘い込んで各個撃破し、明禅寺城を瞬時に奪い返す。

 これを明禅寺合戦と言い、三村軍が総崩れになったことから明禅寺崩れとも言う。謀略家直家が、珍しく正攻法の合戦で勝利した例である。

 この後、宇喜多直家は岡山平野に進出して、当時の山陽道の大商業都市備前福岡を領し、岡山平野の中心に岡山城を築く。

 明禅寺城跡には、ほとんど城の遺構が残されていない。私が気づいたのは、登山路の途中にあった石垣くらいである。

 岡山平野に進出した宇喜多直家からすれば、もう明禅寺城は不要で、三村氏から奪い返しても再建されることはなかったようだ。

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明禅寺城本丸跡

 操山は低山であり、明禅寺城跡の本丸跡へは、そう苦労せずとも登ることが出来る。

 本丸跡は、南北に細長い削平地になっている。

 ここからは、本来今の岡山市街地方面が一望の下に収められるそうだが、木が生い茂っていてよく見えなかった。

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明禅寺城跡の説明板

 本丸跡にも目立った遺構はないが、巨石がどんと中心にあった。

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本丸跡にある巨石

 この巨石は、城とは直接の関係はないだろうが、直家が築城したころからあったものだろう。

 室町時代中頃まで、備前国は播磨赤松氏の勢力下にあったが、次第に赤松氏家臣の浦上氏が力をつけて戦国大名化し、備前を制し、播磨の赤松家を傀儡にするようになった。

 宇喜多直家は、浦上氏の家臣であったが、これまた下克上で浦上氏を倒し、備前美作備中の大部分を手中に収め、岡山城を築き、城下町岡山の基盤を作った。

 宇喜多直家は、今の岡山県の大部分に当る地域を支配下に置いたが、東から迫って来た信長に降伏した。直家の没後は、子の秀家が秀吉に可愛がられ、豊臣政権の五大老の一人にまでなった。

 明禅寺城跡は、直家が岡山平野に進出するための足掛かりとして築かれ、すぐに廃城になったが、宇喜多氏の飛躍のきっかけとなった城の跡である。

 仕事で成功した人は、自分が成功するきっかけとなった出来事を忘れないものだが、直家もこの小さな廃城のことは終生忘れなかっただろう。