極楽山浄土寺 後編

 

 今の浄土寺鐘楼は、寛永九年(1632年)に建立された。

 腰袴付鐘楼で、均整の取れた姿をしている。

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鐘楼

 鐘楼は、加東郡河合郷新部村の粟津七右衛門という者が建立した。浄土寺塔頭歓喜院所蔵の、粟津七右衛門位牌厨子扉裏にそのことが書かれているそうだ。鐘楼は、兵庫県指定文化財である。

 さて浄土寺を代表する建物、国宝浄土堂(阿弥陀堂)は、境内の西側に位置する。

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浄土堂

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 浄土堂は、建久五年(1194年)に上棟された。重源上人が宋で習得してきた大仏様(天竺様)という建築様式で建てられている。

 浄土堂は、建立されてから昭和32年の最初の解体修理までの約770年間、一度も解体修理を受けずに風雪に耐えてきた。それだけでも偉大である。

 大仏様と言われても、図を見なければ理解が難しいと思われるので、好古館に掲示していた浄土寺の説明板の写真を掲載する。

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大仏様の説明板

 また、浄土堂内部の模型は、兵庫県立歴史博物館と好古館にて展示されている。

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浄土堂内部模型(兵庫県立歴史博物館)

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浄土堂内部模型(好古館)

 浄土堂の内部は写真撮影不可なので、これらの図や模型を元に説明していく。
 浄土堂は、これほど広壮な建物でありながら、内部には柱が4本しかない。これだけでどうやって巨大な屋根を支えているのか。虹梁という横に渡した木材で、この4本の柱と外側の柱をつなぎ、柱から上に差し出した斗栱で屋根を支えている。

 これらの図や模型から、重い瓦の載る屋根の重みを、4本の柱と外周の柱だけで支えている、大仏様の複雑かつ合理的な構造が見て取れる。

 この構造だと、建物内部に建つ柱が少なくて済むので、内部空間を広く活用できる。

 屋根の四隅は、斗栱と挿肘木で支えている。

隅の斗栱と挿肘木

 そして、建物内部の4本の柱の中に、快慶作の国宝阿弥陀如来立像及び両脇侍像が祀られている。

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阿弥陀三尊像(浄土寺パンフレット)

 この阿弥陀三尊像は、西を背後にして立っている。

 浄土堂は、丘陵の最も西側に建っている。西日を遮るものはない。浄土堂西側は、蔀戸になっていて、夕方になるとそこから西日が射しこみ、阿弥陀三尊像の後光が輝くように、像の背後が光り輝く仕掛けになっている。

 また、西日は床板に反射して、像の表面にも当たり、金色に塗られた阿弥陀三尊像全体が輝くようになっている。

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浄土堂西側の蔀戸

 阿弥陀如来は、臨終の時に、西方浄土から人々を迎えに来ると信仰されている。

 阿弥陀如来が西日に輝く浄土堂は、重源上人が浄土をこの世に再現する意図で建てたものだろう。

 屋根を見上げると、浄土堂の軒丸瓦と軒平瓦には、南無阿弥陀仏と彫られているのが確認できる。

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現在の瓦

 今浄土堂に載っている瓦は、創建当時のものではない。創建当時の瓦は、好古館に展示している。

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浄土堂創建時の瓦

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 令和元年12月18日の「瀬戸町」の記事で紹介したように、重源上人は、現在の岡山市東区瀬戸町万富の地に、東大寺再建に使用するための瓦を製造する瓦窯を造った。そこで生産された瓦が、鎌倉時代東大寺再建に使用された。

 「瀬戸町」の記事に写真掲載している、再現された東大寺大仏殿の瓦と浄土堂の瓦は瓜二つである。おそらく、浄土堂の瓦も、東大寺と同じく、万富で焼かれた瓦を使ったことだろう。

 重源上人は、鎌倉時代に大仏様を用いて、東大寺大仏殿と南大門を再建した。しかし、大仏殿は、戦国時代に松永久秀によって焼かれてしまった。

 そのため、大仏様で建てられた建物で、日本に現存するのは、東大寺南大門と浄土寺浄土堂の二棟だけになった。

 南大門には、運慶・快慶作の金剛力士像が設置されている。一方浄土堂には、同じく快慶作の阿弥陀三尊像が祀られている。

 更に、先ほど述べたように、この二棟が使用している瓦は、両方万富で生産された瓦である可能性が高い。

 この3点から導き出される結論は、東大寺南大門と浄土寺浄土堂は、鎌倉時代に建造された、建築物の兄弟である」ということである。しかも、南大門の建築は正治元年(1199年)なので、浄土堂の方が年長、つまり兄である。 

 この結論に達した時、私は人知れず感動した。何に感動したかというと、源平争乱で荒廃した日本に、自分が学んだ建築技術を駆使して、仏国土を建設しようとした重源上人の熱意に対してである。

 さて、最後に余談になるが、浄土堂の南側に、今上陛下が皇太子殿下の時代にお植えになった松があった。

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今上陛下お手植えの松

 盆栽のように綺麗に剪定され、大切に育てられているのが分かる。

 今から1000年後、その時代に浄土堂が遺っていて、その隣に巨樹となったこの松があれば、人々は重源上人の時代と令和の御代を並んで偲ぶことになるだろうと思った。

 歴史というものは、人々が大事に思い返すことによって、輝きを増すものである。

極楽山浄土寺 前編

 兵庫県小野市浄谷町にある極楽山浄土寺は、東播磨に4つある「国宝の寺」の一つである。現在は真言宗の寺院となっている。

 浄土寺と言えば、何といっても国宝浄土堂と快慶作の国宝阿弥陀如来立像及び両脇侍像であるが、それ以外にも見所は多い。

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浄土寺伽藍の模型

 好古館に浄土寺伽藍の模型があった。今もこの模型のままの伽藍が残っている。

 向かって中央上部に浄土寺鎮守の八幡神社があり、その右に薬師堂、左に浄土堂が建っている。

 東大寺は、治承四年(1181年)の平家による南都焼討によって大半が焼失したが、東大寺再建の勧進聖となった俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)は、東大寺再建の費用に当てるため、建久三年(1192年)、東大寺領だった大部荘(今の小野市周辺)に甥の観阿弥陀仏を派遣し、荘園整備を始める。

 同年、重源は、大部荘経営の拠点とするため、浄土寺を建立する。途中焼失して再建した建物もあるが、建立当時の伽藍の姿を、ほぼ元のまま現代に伝えている点が貴重である。

 浄土寺鎮守の八幡神社は、境内北側中央に鎮座する。

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八幡神社

 東大寺の鎮守が手向山八幡神社であるように、東大寺の末寺には八幡神社が祀られていることが多い。当社の創建は、嘉禎元年(1235年)である。

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八幡神社拝殿

 拝殿は、創建時の建物ではないが、和様、唐様、天竺様の建築様式を折衷し、室町時代の特徴を残しているという。中央に通路のある割拝殿である。

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拝殿

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 本殿は、室町時代中期の代表的な檜皮葺、三間社流造の建物である。鮮やかな朱色に彩色されている。

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八幡神社本殿

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 蟇股や手挟の彫刻が室町期の様式である。

 本殿の東側には、収蔵庫が建ち、更にその東には不動堂が建つ。

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不動堂

 境内東側に建つ薬師堂(本堂)は、建久八年に建立されたが、明応七年(1498年)に焼失した。その後、永正十四年(1517年)に再建されている。

 桁行五間、梁間五間、単層、屋根宝形造、本瓦葺で、浄土堂とほぼ同じ大きさである。

 当初は浄土堂と同じく大仏様(天竺様)で建設されたが、再建時に和様が混ざり、建築様式の変遷を見ることが出来るという。

 国指定重要文化財である。

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薬師堂

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 薬師堂のご本尊は、浄土寺建立時に既に荒廃していた広渡寺の仏像などを集めて祀ったとされている。

 薬師堂の南側には、重源上人像を祀る開山堂がある。こちらは兵庫県指定文化財である。

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開山堂

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重源上人坐像

 重源上人坐像は、国指定重要文化財である。

 重源上人は、保安二年(1121年)に紀季重の子として生まれ、俗名を刑部左衛門尉重定と言った。13歳の時、醍醐寺に入り、真言の修行に専念した。早くから宋に渡り、宋文化への造詣を深め、建築、工芸等の技術にも習熟した。

 日本に戻って、東大寺再建勧進聖となって、大仏様(天竺様)というインドの建築様式を導入し、東大寺再建の大事業を成し遂げた。東大寺以外にも、この浄土寺を始め、数々の寺院を興したと言われている。

 重源上人は、建永元年(1206年)、東大寺浄土堂にて86年の生涯を閉じた。

 重源上人は僧侶ではあるが、平安、鎌倉時代の、というより日本史上の偉大な建築家の一人に数えてよいと思う。

 次回に、今に残る重源上人の名作、浄土堂を紹介しようと思う。

好古館 小野市伝統産業会館

 兵庫県小野市西本町にある好古館は、小野市の遺跡から発掘された出土品や、歴史資料を展示する歴史博物館である。

 昭和11年に建てられた小野小学校の講堂を移築して、平成2年に開館した。

 好古館の隣には、小野小学校があるが、学校の前に一柳家陣屋遺跡の石碑が建っている。

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柳家陣屋遺跡の碑

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 寛永十三年(1636年)、伊予西条城主一柳直盛の子直家が、伊予の2郡と加東郡内の1万石の計2万8600石を得て、小野藩の藩祖となり、敷地村に陣屋を設けた。

 寛永十九年(1642年)、直家は急死したが、嗣子がいなかったので、加東郡1万石に減封された。翌年、直次が養子に入り、小野藩一柳家2代目藩主となった。

 承応二年(1653年)、直次は要害地であるこの地に陣屋を移転した。

 現在は、陣屋の建物は何も残っていない。小野藩一柳家は、1万石の小藩ながら、直家から11代に渡り、幕末まで小野を領した。

 好古館は、鉄筋コンクリート製の重厚な建物である。

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好古館

 好古館には、豊臣秀吉から一柳家が拝領した黄地牡丹蓮唐草文緞子胴服が収蔵されている。名前からして華麗な安土桃山時代の衣服を想像させる。国指定重要文化財だが、拝観は出来なかった。

 展示品で特筆すべきは、小野市の勝手野古墳群から発掘された装飾付須恵器である。勝手野古墳群は、小野市黍田町の山裾にあった6世紀末から7世紀前半頃に造られた古墳である。

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勝手野古墳群の発掘状況

 勝手野古墳群は、山陽自動車道の工事中に発掘された。今は、その場所を高速道路と側道が通り、山裾を見ても古墳の形跡は認められない。

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現在の勝手野古墳群所在地

 好古館に展示されている装飾付須恵器は、兵庫県指定文化財である。

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装飾付須恵器

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 須恵器の中央にはツバを巡らせ、その上に乗馬をしたり相撲をしたりする人々を載せている。どれも表情豊かでユーモラスだ。
 古墳時代の人々も、愉快な気持ちを持つことがあったようだ。

 好古館には、小野市内の広渡廃寺や浄土寺の出土品などを展示しているが、それらの展示物は、今後それらの史跡を紹介する時に説明しようと思う。

 一柳家の遺物としては、陣屋の建物の上に載っていた一柳家の家紋入り鬼瓦が展示してあった。

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柳家家紋入鬼瓦

 1万石程度の小藩ながら、小野藩は教育に力を入れていたようだ。好古館前には、津和野出身の国学者大国隆正が来藩して藩士に教育した功績を記念する石碑や、小野藩出身の儒学者藤森弘庵の顕彰碑が建っている。二人とも尊王思想の持主である。幕末の小野藩は、官軍側についたが、大国の教育が与って力あったのではないか。

 さて、小野市王子町の小野市役所の隣にあるのが、小野市伝統産業会館である。ここには、小野市の伝統産業である播州そろばんと小野金物の製品を展示している。

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小野市伝統産業会館

 ちなみに算盤は、宋朝以降中国で使用され始め、永禄年間(1558~1570年)に毛利勘兵衛重能が明朝から日本に伝えた。毛利は、日本で初めて京で珠算道場を開いた。珠算が広まるにつれ、大津では算盤生産が拡大した。

 秀吉の三木城攻めの時に、三木の住民が大津に疎開し、そこで大津そろばんの製造技術を習得して、播州に帰ってきたのが、播州で算盤が生産されるようになったきっかけであるらしい。

 三木では算盤造りは発展しなかったが、天保年間から小野で発達した。

 現在では算盤が使用されることは少なくなり、生産も減少しているが、それでも小野市が全国生産の7割を占めているらしい。

 私は今46歳だが、私の年代以上の人なら、幼いころ珠算を習った方が多いのではないか。

 小野市伝統産業会館には、様々なそろばん製品を展示している。中には、こういうものがあれば便利だと感じるものもある。中には、ほとんど遊び心で作ったとしか思えないものもある。

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数え板

 例えばこの数え板などは、料理屋で出した銚子の本数を数えるのに使っていたという。

 現代の居酒屋などでも使えるのではないかと思う。

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両面型そろばん

 この両面型そろばんは、分数計算に使われたそうだが、これでどうやって分数計算をするのか想像ができない。

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多い桁を計算するための算盤

 上の写真の真ん中の長い算盤は、213桁まで計算することが出来る。実際にそんな計算を算盤でする必要があるのか疑問だが、一種の遊び心で作ったものだろう。

 小野の金物生産は、農業の副業として始まった。延享年間(1744~1748年)に大島村の又右衛門が剃刀を製造したことに始まるそうだ。その後、握り鋏、剪定鋏、ナイフが続々と生産された。

 特に、明治時代に入って、一柳藩の刀鍛冶の藤原伊助が、剃刀の製造技術を使って製造した播州鎌は、切れ味鋭く、全国生産の80%を占めるまでになった。

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播州

 小野市は現在、小野金物を播州刃物としてブランド化してアピールしている。

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播州刃物

 今日本各地に特産品があるが、大体江戸時代半ばから生産されるようになったものが多い。

 幕藩体制下では、食糧生産だけでは藩は食っていけなくなったのである。そこで、各藩が住民に特産品の生産を奨励し、農業以外の副収入とした。地域によっては、それが今でも特産品として生産されているわけだ。

 日本は時代が進むにつれて、全国が画一的になっていったが、このような地域の特色ある産業は、いつまでも残って欲しいものである。

奈義町の史跡

 菩提寺から山岳路をしばらく西に走ると、大別当城跡に登る道が見えてくる。

 登り口から北を望むと、彼方に那岐山が聳えている。

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那岐山

 那岐山は、標高1255メートルである。あの山の向こうは鳥取県だ。

 奈義山脈中には、他にも複数の山城があるが、いずれも美作菅家の主家である有元氏の居城であった。

 大別当城も、その一つである。山脈から南に張り出した大別当山上に城跡はある。大別当山は、標高584メートルで、今はそこに展望広場が設けられている。

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別当城跡登り口の碑

 登り口には、クマ出没注意の看板が立っていた。かつて和気町の天神山に登った時のことを思い出し、少し緊張したが、気を取り直して登り始めた。

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別当

 大別当山の登り口自体が、標高500メートルほどの場所にあるので、登山と言うほどのこともなく、展望広場に至った。

 広場からは、眼下に広がる奈義町扇状地を目に収めることができる。

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展望広場

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展望広場からの景色

 麓のあちこちで稲わらの焼却をおこなっていて、その煙で景色が霞んで見える。展望広場には、大別当城の説明板がある。大別当山は、南北に延びている山で、その上に連郭式の山城が築かれていた。

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別当城の見取図

 郭の間に深い堀切が掘られていた。堀切は、山城防衛のために造られた空堀のことである。

 大別当山の登山道の途中には、急なアップダウンがある。それが堀切の跡である。

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堀切跡

 高低差は5メートルはあろうか。もしここを敵が登って来たら、上から矢や鉄砲を浴びせかけたことだろう。

 大別当城跡の近くに、蛇淵の滝がある。蛇淵の滝の入口には、赤鳥居が建っている。ここにも、クマ出没注意の看板が立っていた。

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蛇淵の滝入口

 美作菅家の菅原仲頼は、ある娘と婚姻して、三穂太郎(さんぶたろう)という伝説上の巨人を生んだ。太郎は、那岐山と京都の間を三歩で移動したという。

 仲頼の妻の正体は、実は大蛇であった。正体を知られた妻は、この蛇淵の滝に姿を消したという。

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蛇淵の滝

 美作菅家は、七つの家に分家したが、宗家の有元家の祖・有元満佐と三穂太郎が後に同一視されるようになった。

 江戸時代になって、美作が津山藩森家の領国となった際、津山藩は、地元国人層の中での古くからの有力者を上位とする家格秩序を制度化し、有元家を支配体制の中に組み込んだ。

 有元家は大庄屋となって、大別当山の麓に広壮な屋敷を持った。

 有元家は、明暦元年(1655年)に火災で焼失した居宅を再建する際、池泉式の鑑賞庭園を造営した。

 今でも麓に有元家はあり、非公開ながら庭園も残されている。那岐山脈を借景として造られた庭園であるという。今は背後に森が出来て、那岐山は見えなくなっている。

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有元家庭園

 ここから西に行った奈義町成松には、諾(なぎ)神社がある。祭神は伊弉諾(いざなぎ)尊である。

 諾神社は、元々は那岐山頂に祀られていたそうだが、風雪のため破損著しく、貞観二年(860年)に麓の不老の杜に移された。大正5年に、日本原の陸軍演習場の拡張工事のため、現在地に移された。

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諾神社鳥居

 那岐山には、日本の国生みの神、伊弉諾尊伊弉冉尊が降り立ったと言われている。広島県比婆山には、伊弉冉尊の陵墓とされる塚がある。

 中国山地は、古代は出雲の勢力圏であった。

 そこに、皇室の祖とされる伊弉諾尊伊弉冉尊の二神と関連する山があるということは、この二神は元々は出雲の神だったのではないかと想像してしまう。

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拝殿

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本殿

 記紀の神話では、この二神の子である天照大御神素戔嗚尊姉弟のうち、姉が皇室の祖となり、弟の子孫が出雲の支配者になったとしている。

 大和と出雲という、古代に並び立った勢力圏を一つに結び付けるために、国生みの二神が両者の祖先とされたように思う。

 諾神社本殿の銅板葺きの屋根は、鮮やかなオレンジ色であった。オレンジ色の屋根の本殿は初めて見た。由来はよく分からない。

 神社社頭には、奈義神山之碑が建つ。

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奈義神山之碑

 この碑には、幕末の備前国学者・平賀元義が那岐山について詠んだ、「並々に思ふな子ども水尾(みずのお)の御書(みふみ)に載れる神の御山ぞ」という歌を万葉仮名で刻んでいる。

 水尾とは、京都の水尾山稜に葬られた清和天皇のことであり、御書とは、六国史日本三代実録」の中の「清和天皇紀」のことを指す。

 清和天皇は、貞観五年(863年)に、諾神社に従五位上の神階を授けた。そのことが、「清和天皇紀」に載っているという。

 清和天皇の時代にも、那岐山は神の山として崇敬されていたのだろう。

 諾神社の西方の奈義町広岡には、古墳時代後期の岡・城が端古墳の跡がある。現在は田畑が広がる丘があるのみで、古墳跡を認めることはできない。

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岡・城が端古墳のあった丘

 過去の発掘で、この古墳の横穴式石室から、「取」と箆書きされた、6世紀後半から7世紀前半に製造された須恵器の杯蓋が見つかったらしい。土器に書かれた文字としては最古期に属し、漢字の普及時期を考える上で、貴重な手がかりを与える資料であるらしい。

 私が住む播磨は、丁度大和と出雲の中間地点にある。史跡巡りをいつまで続けられるか分からないが、これから徐々に大和と出雲に近づいていくことになるだろう。同時期に大和と出雲の2つの地域を訪れたら、何か新しい発見があるかも知れない。

奈義町 菩提寺

 岡山県勝田郡奈義町高円にある高貴山菩提寺は、那岐山の中腹、標高およそ500メートルほどの場所に位置する。

 菩提寺は、持統天皇の治世(686~697年)に役小角が開基したと伝えられており、往時には、七堂伽藍三十六坊が立ち並んでいたと言われている。

 平安時代後期に、法然上人(幼名勢至丸)が叔父の勧覚上人の下で、9歳から13歳までをここで修行して過ごしたとされている。浄土宗では、菩提寺を「初学の地」と呼んでいる。

 私も史跡巡りを始めてから、法然上人が美作国出身であることを知った。

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菩提寺山門

 菩提寺は、康安元年(1361年)に、伯耆国守護山名時氏によって焼き討ちされた。その後、数百年の間、寺は草堂のみを残し、荒廃するまま打ち捨てられていた。

 山門から入って左手には、芒が広がる土地があるが、かつて堂塔や僧房があった場所である。

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かつて寺院があった場所

 その後、地元の人々によって、寺院は少しづつ再興された。文久元年(1861年)には、京都大覚寺から、今の御本尊である十一面観世音菩薩坐像が請来された。

 明治14年1881年)には、現在の本堂が建てられた。本堂は、平成24年に全面的に修復された。

 幾たびの変遷を経て、現在の菩提寺は浄土宗の寺院となっている。

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本堂を囲む杉林

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本堂

 本堂は、巨大な杉の木に囲まれている。本堂前の2本の広葉杉は、奈義町指定天然記念物である。

 本堂の東側に、石造五輪塔が林立する場所がある。菅家武士団の墓と伝えられている。

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菅家武士団の墓

 菅家武士団というのは、菅原道真の末裔で武士になった者たちである。

 承暦二年(1078年)、道真から数代後の菅原知頼は、美作守となって任国に下り、在職中に作州勝田郡で死去した。

 その子真兼は、押領使となってそのまま美作に住み着き、美作菅家の祖となったという。

 知頼から5代目の有元満佐を祖とする菅家七党は、南北朝、室町、戦国時代を通じて美作北東部の国人(武装した地元の豪族)として活躍した。

 ところで、平安後期には、桓武平氏村上源氏のように、臣籍降下した皇族の末裔が、地方で武士団の棟梁になったり、地方の豪族が、任国にやってきた貴族に自分の娘を嫁がせて、その貴族の子が地方に住み着いて国人になったりした。

 私の好きな播磨の赤松氏も、村上源氏である源師季の子・源季房が播磨国佐用庄に配流され、地元の豪族の娘と婚姻したことから始まっている。

 武士の中でリーダーシップを発揮できたのは、中央の皇族や貴族の血を引いた出自を持つ者たちであった。

 以前から、なぜ平氏や源氏や足利氏や徳川氏といった武家が、無力に等しい天皇家を打倒しなかったのか議論されてきたが、彼ら自身の統治の正当性が皇室の血を引いていることにある以上、皇室を打倒することなど思いもよらないことなのである。

 そして皇室の統治の正当性が、天皇が日本の神々の末裔であると古来から信じられてきたことにあると考えれば、日本という国の骨格をなしているのは、「日本書紀」の神代記ということになる。

 さて、菩提寺の境内には、国指定天然記念物の菩提寺イチョウがある。

 このイチョウは、勢至丸(法然上人の幼名)が菩提寺に来る前に、麓にある幸福寺に立ち寄り、そこに生えていたイチョウの木から取った枝を杖にして菩提寺まで歩き、学業成就を願って境内に挿した杖がそのまま成長したものだという。

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菩提寺イチョウ

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 この菩提寺イチョウ、驚くほどの巨木である。枝から滴るように気根が下に伸びようとしている。これが地面に付けば、そこから根付いて新たな株が出来る。

 私は、イチョウの木が好きである。秋の黄葉した姿もいいが、春や夏の緑樹のころもいい。今のように、黄色い葉が散って、地面一面に散り敷いているのもいい。葉がなくなって、幹と枝だけが寒風の中に立つ冬の姿もいい。一年通していいのである。

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地面を覆うイチョウの葉

 ところで、勢至丸が、菩提寺に来る前に立ち寄って、枝を折って杖にしたというイチョウの木が、奈義町小坂の幸福寺跡に建つ阿弥陀堂にある。樹齢千年を超えるという。

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阿弥陀堂イチョウ

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 平成25年に、奈義町教育委員会が、阿弥陀堂イチョウ菩提寺イチョウのDNAを検査したところ、同一のDNAを持っていることが分かった。

 勢至丸が阿弥陀堂イチョウの枝を杖にして菩提寺に行き、学業成就を願って境内に挿したという伝承が、強ち間違っていないことが証明された。

 阿弥陀堂イチョウの脇には、イチョウの黄色い葉に囲まれて、石造無縫塔や石塔がある。

 特に無縫塔は、岡山県内に4基しか現存していない重制無縫塔の1つで、南北朝時代から室町時代前期の作だという。岡山県指定重要文化財である。

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石造無縫塔と宝篋印塔

 阿弥陀堂菩提寺イチョウの木のように、人々の歴史も時を越えて受け継がれていく。

 皇族と武家の歴史しかり、法然上人の教えしかりである。我々一人一人が、後世に何事かをバトンリレーしていく存在であると思う。

植月寺山古墳 梶並神社

 JR勝間田駅から北東方面に行った岡山県勝田郡勝央町植月東にあるのが、植月寺山古墳である。

 古墳は、観音寺という寺院の裏にある。方墳が連なる前方後方墳という珍しい形式の古墳である。

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植月寺山古墳の墳丘図

 私が史跡巡りで初めて訪れた前方後方墳である。

 墳長は約91メートル。美作地方では最大級の古墳である。ここからの出土遺物はないが、前方後方墳が造られ始めた3世紀後半から4世紀前半の築造と見られている。

 全国的に見ても、前方後方墳は、前方後円墳と比べれば数は圧倒的に少ない。東日本には多く存在するが、西日本では出雲から美作、播磨にかけての地域に多く存在する。

 播磨の伊和大神が出雲からやってきたという伝承を思い起こさせる。

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植月寺山古墳の後方部

 実際の植月寺山古墳は、墳丘上に木が生い茂って、方形を認識することが出来ない。しかし、近づくと古墳の「くびれ」の部分は認められる。

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古墳の「くびれ」部分

 丁度その「くびれ」のある辺りから、枝木が切り開かれ、古墳上に登る道が作られている。後方部の中央は、切り開かれてベンチが置かれている。

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後方部の墳丘上

 前方後方墳は、大和盆地にもあるので、出雲勢力独特の様式とも言えない。何か理由があって前方後円墳と使い分けられていたものなのか、知りたいものである。

 そして、ここに眠る人物は、大和王権とどういう関係にあったのか、興味は尽きない。

 植月寺山古墳から北東に進み、美作市梶並に行く。ここに当人祭という珍しい祭りで知られる梶並神社がある。

 梶並神社の周辺の森は、様々な種類の広葉樹が茂っていて、自然度の高い社叢を形成しているそうだ。美作市指定天然記念物となっている。

 参道には、樹齢350年の杉や欅が林立する。

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梶並神社の参道

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梶並神社の鳥居

 梶並神社は、推古天皇二十一年(613年)の創建とされる。古くは近くの武男山の山頂にあり、水神を祀っていた。

 天元二年(979年)に、宇佐八幡宮の分霊を祀り、梶並八幡宮となった。

 現在の社殿は、安政三年(1856年)の再建である。

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鈴を抱く狛犬

 ここの狛犬が、鈴を抱いていた。今まで見たことのない狛犬の姿である。地方のあまり高名でない神社に行っても、様々な発見があって面白い。

 拝殿は、檜皮葺入母屋造りで、正面に唐破風がある。

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拝殿

 当人祭は、毎年10月第1土曜日に行われる。氏子から選ばれた当人が、約10日間家族を近づけず食事は自炊し、毎朝水垢離をして神社に参拝する生活をして身を浄める。

 祭礼の当日になって、当人は裃、烏帽子姿になって行列を従え、梶並神社に向かう。

 他の氏子たちは、参道にひれ伏して当人を迎える。当人はひれ伏した氏子たちを跨ぎながら拝殿に至る。

 その後社殿で祭礼行事があり、翌日未明、水垢離を取って神事を終え、再び行列を従え神社を後にする。

 一種の生き神信仰のようだが、それをいつのころからか、氏子で順番に務めるようになったのだろう。

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本殿

 本殿は、オーソドックスな流造である。木鼻の獏の口腔内が赤く彩色されていて、ちょっと怖い。

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木鼻の彫刻

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 どんな神社にも、そこに祀られたいわれがある。受け継がれている祭礼にもいわれがある。

 そうしたいわれあるものを氏子たちが受け継いでいくことが、地域の文化の中心となっている。

 一神教と違って、各地域の神社ごとに特色ある祭礼が存在することが、日本の文化的な多様さを現わしている。

 八百万の神々が遍満する我が国の面白さを感じる。

三星城跡 吉田の油地蔵

 林野の町から国道179号線を北上すると、左手に三星山が見えてくる。この山の麓にあるのが三星城跡である。

 美作中央病院の裏に三星山の登り口がある。

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三星山登り口

 登山口には、明見三星稲荷の鳥居がある。この先で道が左右に分かれる。左に行けば、明見三星稲荷があり、右に行けば三星城跡がある。

 応保年間(1161~1163年)、土豪渡辺氏の居館として、この地に妙見城が築城された。

 延元四年(1339年)、足利氏の下でこの地の地頭職となった後藤氏が、妙見城に入城し、三星城と名を改める。

 後藤氏は、その後勢力を拡大した。戦国時代に入り、後藤勝基の代となって、後藤氏は最盛期を迎える。

 勝基は、美作東部を制圧し、信長とも交わりを持ちつつ、領国を固めていった。

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米倉跡

 永禄三年(1561年)、勝基は21歳の時、宇喜多直家の息女千代を妻に迎える。

 しかし、真木山長福寺の寺領争いに端を発して、備前の宇喜多と美作の後藤は対立する。

 天正七年(1579年)、宇喜多軍が東作(美作東部)に侵攻し、激戦となる。数で優る宇喜多軍は、後藤氏の城を次々と陥落させ、林野城を突破し、三星城麓の明見原に布陣する。

 天正七年五月二日、明見原で宇喜多軍と後藤軍は決戦した。後藤軍は、奇襲攻撃や地形を利用した山岳戦を行ったが、三星城内に内応者を作って火攻めを行うなどの調略を尽くした宇喜多軍に敗北した。

 敗北を悟った勝基は、長年苦労を共にした家臣達に礼を述べ、自分たちの郷里に戻るように諭した後、城に火を放って脱出し、長内村大庵寺で自刃した。

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三星城本丸跡

 三星城本丸跡は、三段の台地となっている。三段目からは麓の町を見下ろすことが出来る。

 三星城の戦役は、秀吉による備中高松城攻めを除けば、戦国時代の吉備美作地域最大の戦いとされている。

 天正7年は、本能寺の変の3年前である。宇喜多直家は、後藤勝基を倒して、今の岡山県のほぼ全域を支配下に置いたが、その後すぐ東に迫っていた織田の軍門に下り、秀吉と共に毛利を攻めるようになる。 

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本丸跡

 本丸跡一段目には、忠魂碑が建ち、その横に後藤勝基の墓とされる五輪塔が建っている。

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後藤勝基の墓

 勝基の墓とされる五輪塔は、背後の木の根が盛り上がってきているせいで、前に傾き始めている。

 この五輪塔は、勝基が亡くなってから、かなり経ってから建てられたものではないか。

 浦上宗景も後藤勝基も、領地をそれなりに広げ、一時は軌道に乗っていた武将たちである。彼らが天下を取るに至らなかったのは何故であろうか。どこかに読みの甘さがあったのか。

 信長もスタート地点では、浦上宗景や後藤勝基とそれほど変わらない一地方の武将に過ぎなかった。それが天下統一目前まで行ったのだから、信長は革命的な天才であったと言える。秀吉も家康も、信長が敷いたレールを走って天下を取ったと言ってもいいので、今の日本を準備したのは信長だったと解釈してもいい。

 三星城から西に走り、勝田郡勝央町に入る。東吉田にある東光寺に行く。

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東光寺

 この東光寺の山門前の小さな地蔵堂の中に、岡山県指定重要文化財である石造地蔵菩薩立像(吉田の油地蔵)が祀られている。

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地蔵堂

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石造地蔵菩薩立像

 地蔵堂の中に入ると、むっとするほど植物性油の匂いがした。

 石造地蔵菩薩立像は、花崗岩の自然石に地蔵を彫り込んだものである。この地蔵に油をかけて祈れば、どんな難病でも治るという信仰から、今でも地蔵に油をかけにくる人が絶えない。

 石造地蔵菩薩立像には、「康暦二(1380年)庚申二月廿九日立午時 願主圓佛敬白」の銘がある。

 この像は、ある時まで、東光寺麓の滝川のほとりの水田の中に埋もれていたらしい。ある人が掘り出してから、東光寺参道入口に祀られるようになったが、大正13年に現在地に移されたという。

 これほど昔に造られた石造仏であれば、もう少し風化していても良さそうなものだが、花崗岩という硬質な岩石のせいなのか、水田の中に長期間埋まっていたせいなのか、風化は進んでおらず、銘文や描線を明確に認識できる。

 日本全国の屋外に建つ仏像のうち、地蔵は圧倒的多数を占めると思われる。それだけ日本人から親しみを持たれ、人々の願いを受け入れてきた仏像である。

 家の近くのお地蔵様にも、もう少し関心を持ってみようかと思う。