林野

 長福寺を出て、国道374号を使って吉野川沿いを北上する。

 しばらく車で走ると、美作市安蘇にある、安蘇宝篋印塔に至る。

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安蘇宝篋印塔

 安蘇宝篋印塔には、正中二年(1325年)性忍敬白という銘文がある。

 鎌倉時代後期は、石造美術の最盛期である。この時代に、なぜ石造美術が多数現れたかは謎だが、鎌倉時代はじめに大陸から伝わって、後期に至って一気に流行したのではないかと思われる。

 安蘇宝篋印塔は、岡山県指定重要文化財である。

 ここから北上すると、湯郷温泉に至る。

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湯郷温泉

 湯郷温泉には、若いころ宿泊に来たことがある。その時に泊まった湯郷グランドホテル前の通りを撮影した。

 朝の温泉街には、独特の雰囲気がある。宿泊を終えた客が旅館から送り出される時間帯である。温泉に入って身も心も満足した人たちの気持ちが、町に満ち溢れているように感じる。

 湯郷温泉から北に行くと、美作市の中心となる林野の町に入る。

 林野の町を代表する洋風建築が、中国銀行旧林野支店本館である。

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中国銀行旧林野支店本館

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 この建物は、大正10年(1921年)に妹尾銀行林野支店として建てられた。ルネサンス様式を取り入れた、重厚で優雅な造りである。美作市指定重要文化財となっている。

 その後、中国銀行林野支店となったが、昭和59年の店舗移転を機に創建当時の姿に復元された。

 一時は美作市歴史民俗資料館として利用されていたが、平成25年から閉館している。

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 1921年と言えば、およそ100年前である。この建物は、その間林野の町の成り行きを見守ってきた。その重厚な姿は、郷土の誇りともなるべきものである。

 林野には、聖徳太子創建の間山(はざまやま)高福寺の法灯を継ぐ間山安養寺がある。

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安養寺仁王院

 高福寺は、用明天皇元年(586年)に勅願寺として、今の安養寺の場所から北西に約10キロメートルの位置にある勝南間山に建てられた。

 高福寺は、その後天正元年(1573年)に兵火で焼失し、安養寺と名を変えて梶並川沿いの沢村に再建された。
 慶長八年(1603年)に津山の国主となつた森忠政は、林野城址の麓に別荘を営み豪華な蓬莱枯山水、鶴亀の庭園を設けた。

 安養寺は、寛文三年(1663年)に真言宗御室派の寺院となる。
 森家の意向により、忠政の別荘の地が安養寺に寄贈され、元禄十年(1697年)に安養寺はこの地に移った。

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蓬莱枯山水

 仁王院の裏には、小堀遠州が作庭し、忠政が眺めたとされる枯山水の庭園がある。美作市指定名勝となっている。

 安養寺のご本尊は、国指定重要文化財の木造十一面観音立像である。森家の人々も厚く信仰したという。

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安養寺観音堂

 木造十一面観音立像は、秘仏となっており、33年に1回開帳される。

 安養寺の裏にあるのが、標高249メートルの城山である。山上に林野城跡がある。

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城山

 林野のハローワークの裏に登山口がある。そう高くない山である。

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林野城復元図

 登り出してすぐに三の丸に至る。

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三の丸の削平地

 登っている途中に目の前を雄鹿が横切った。自然の中にいるのを実感する。

 林野城は、鎌倉時代に築城された。最初は在地豪族の後藤氏の居城だったが、その後、山名、尼子、浦上、宇喜多、小早川と支配者が変遷した。

 森忠政津山藩主となったころには、廃城となっていたことだろう。

 二の丸跡は、林の下に熊笹が生い茂り、その上を風が渡る不思議な空間だった。

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二の丸跡

 二の丸からは、湯郷温泉の町並みを一望できる。

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二の丸からの眺望

 林野城は、城山の馬の背状の地形をうまく利用して築かれた連郭式の城である。本丸跡に上がると、奥行きのある馬の背状の地形が広がっていた。

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本丸跡

 本丸の主屋が建っていたと思われる場所は、土が盛り上がって土壇のようになっていた。

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 この城の上で、武士たちは何を話したのだろう。

 林野の町を短時間に散策したが、寺院や城跡や旧銀行の歴史を知り、それを繋げて考えるだけで、町の過去が浮かび上がってくる気がする。

 林野は小さな町だが、どんな小さな町にも、尊重すべき来歴がある。家族にも歴史があるように、人が集まればそこには歴史が生まれるのだ。

天石門別神社 長福寺

 備前国北部から美作国にかけては、天石門別(あまのいわとわけ)神社という名の神社が数多くある。

 美作市英田町滝宮にある天石門別神社もそのひとつである。

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鳥居

 祭神は、天手力男(あめのたぢからお)神である。天手力男神は、天照大御神が天の岩戸に引きこもった時に、岩戸を思いきり引きずり開けて、天照大御神を外に連れ出した大力の神様である。

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拝殿

 社伝によれば、この神社の由来は以下のとおりである。

 第10代崇神天皇が、吉備地方の征服のため、四道将軍の一人大吉備津彦命山陽道に派遣した。

 大吉備津彦命は、丹波の氷上の里の道の口において、前途の平安を祈るために祭儀を行った。

 その時に、天手力男神が降り立って、「我は吉備国の雄神河(吉井川の古名)の上流の滝の下に坐す天手力男神である。汝が行こうとする吉備は、山路峻嶮で賊徒の勢いが盛んである。よって我が、汝を嚮導しよう」と託宣した。

 その後、天手力男神の導きで、大吉備津彦命は無事に吉備を平定できたという。

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本殿

 大吉備津彦命は、吉備平定後、この地に赴き、天手力男神に対して、神恩報謝と戦勝祝賀の祭儀を行い、天手力男神をここに鎮祀したという。

 天石門別神社は、朝廷、武家、民衆から厚く信仰され、美作国の三宮となった。

 本殿は、岡山県指定文化財である。元禄十年(1697年)に、津山藩主森長武により再建された。

 本殿の背後に、旧英田町の指定文化財となっている磐座がある。

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磐座

 この磐座は、大吉備津彦命が祭儀を行った際の遺跡であると伝えられている。

 磐座というと、自然の巨岩や奇岩が祀られているものが多いが、こんな石垣のような人工物が磐座とされている例は珍しい。

 しかし、この磐座、不思議なオーラを発している気がする。

 この磐座の先に、琴弾の滝がある。天手力男神が宿っている滝である。

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琴弾の滝

 太古の神道は、社殿を建てずに、山や滝や岩といった自然物を御神体として信仰していたと言われている。

 社殿のない、この滝と磐座だけの姿が、本来の天石門別神社の形であろうと思われる。太古の日本人は、自然から感じる力をそのまま崇拝していたのだろう。

 そう考えると、日本人にとって、日本列島の自然自体が御神体と言ってもいいだろう。

 なるほど、日本人の信仰に立てば、日本は神州である。
 天石門別神社には、空気が冷えていた朝方に訪れた。訪れて、背筋が伸びるような清冽な気に打たれたように感じた。

 天石門別神社から西に走り、美作市真神にある真木山長福寺を訪れた。

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長福寺

 長福寺は、現在は真言宗の寺院である。

 当寺の創建は、天平宝字元年(757年)で、孝謙天皇の勅願により、鑑真和上が真木山上に寺院を開いたとされている。

 弘安八年(1285年)、天台宗の円源上人が中興した。明徳年間(1390~1394年)に真言宗の寺院となった。最盛期は、山上に65坊の伽藍が立ち並んでいたという。

 その後時代の推移と共に衰微し、明治9年には、奥の院の長福寺1ケ寺となった。

 長福寺は、昭和3年に真木山上から麓の現在地に移転した。国指定重要文化財の三重塔は、寺院の移転後も山上にあったが、痛みがひどくなり、昭和25年の解体修理を機に現在地に移築された。

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三重塔

 三重塔は、鮮やかな朱色に塗られているので、新しい建物かと思ってしまうが、弘安八年(1285年)銘の棟札をもち、円源上人による長福寺再建時に建てられたものと分かっている。

 実は岡山県下で最古の木造建築物である。

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 朱色と白と緑に彩られた塔身と、檜皮葺の反り返った屋根が美しい。私が史跡巡りで訪れた7つ目の三重塔である。

 長福寺には、この三重塔だけでなく、木造十一面観音立像、絹本着色不動明王像、絹本着色両界曼荼羅図、伝増吽筆十二天像といった国指定重要文化財がある。

 三重塔の裏には、真木山の守り神を祀っていると思われるお社がある。

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三重塔裏のお社

 このお社で面白かったのは、拝殿の中に、密教の修法壇が置かれていることである。

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 御簾の向こう側の本殿には、神様が祀られている。拝殿の左右には狛犬が鎮座している。しかしここでは、修法壇に僧侶が座って、神様に向かって祝詞ではなくお経を上げているのだろう。

 今回、朝方に神社と寺院を訪れた。境内の緑に薄白く霜がおりていて、朝焼けに当たる山々から靄が立ち上がっていた。

 神社仏閣を巡るのは、冬の朝に限ると思う。春や秋もいいが、冷たい朝の空気の爽やかさが、気分を引き締めてくれる。神や仏が身近にいるように感じる季節は冬である。

加西市 東光寺

 加西市殿原町の加西市立泉小学校の東隣に、国府寺という天台宗の寺院がある。ここは、白鳳時代の寺院の廃寺跡でもある。殿原廃寺という。

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殿原廃寺跡

 とは言え、今の国府寺には、白鳳時代に寺院があったことを示すものは何もない。

 門から入って左手の庭園の辺りが、かつて塔礎が発掘された場所である。

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かつて塔が建っていた場所

 白鳳時代に寺院があった場所を地図に落としていったら、7世紀の日本の人口分布がある程度分かるのではないか。

 次なる目的地、加西市上万願寺町にある有明山東光寺を訪れる。

 ここも白雉二年(651年)に法道仙人が開基した寺院である。現在は、天台宗の寺院である。

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東光寺

 法道仙人が開基したのは、有明山万願寺という寺院であった。万願寺には、北の坊、南の坊、奥の坊といった諸院があったが、天文七年(1538年)に戦火で焼失した。天文九年(1540年)に子院である南の坊を再興し、有明山東光寺とした。

 本堂は、別名薬師堂と称し、薬師如来をご本尊として祀っている。

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本堂(薬師堂)

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本堂内の厨子

 本堂内の薬師如来を収める厨子は、どう見ても神社建築の様式である。神仏習合の一端を、ここでも窺うことができる。

 東光寺では、毎年1月8日に、鬼会と呼ばれる行事が行われる。国指定の重要無形文化財となっている。

 鬼会は、田遊びと鬼追いという二つの行事を合わせたものである。

 田遊びは、厄男が扮する福太郎と福次郎が、田主に呼ばれて鍬を担いで登場し、恵方に向かって田を耕し、苗代に種を撒くなど、様々な農作業を演じる行事である。

 その後鬼追いとなり、厄男が扮した赤鬼青鬼が登場する。鬼は、鬼の子と呼ばれる子供達に追いかけられ、松明や鉾を振り回しながら堂内を巡る。

 鬼が退場すると、参詣者が本堂前に飾られた鬼の花(丸木を削って造る削り花)を得ようと集まる。

 摂津から播磨に伝わる鬼追いの行事で、田遊びの儀礼が結びついて伝承されているのは、東光寺の鬼会だけであるらしい。

 境内には、兵庫県指定文化財である東光寺梵鐘がある。 

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東光寺梵鐘

 銘文によると、この梵鐘は、観応元年(1350年)に鋳造され、播州多可郡安田荘禅光寺の梵鐘として使われていた。その後、宝徳三年(1451年)に播州多可郡大幡庄の熊野三社権現の梵鐘となり、文禄四年(1595年)に東光寺の梵鐘となったという。

 一時は手荒く扱われたらしく、梵鐘上部に窪みや小さな穴がある。激動の時代を経巡ってきて、今ここにある梵鐘に敬意を表したい。

 東光寺の西隣には、若一(にゃくいち)神社がある。

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若一神社拝殿

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若一神社本殿

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本殿前の狛犬

 祭神は市杵島姫命であるらしい。

 本殿前の、尾が分かれた狛犬が素敵だったので、つい写真に収めてしまった。尾の螺旋様の飾りなど、なかなか彫れるものではないと思う。

 東光寺と若一神社も、神と仏が同居する日本の信仰の形を表している。

 東光寺を出発し、加西市坂元町にある阿弥陀堂の石造五重塔を訪れる。坂元町には、二つの大歳神社があるが、北側の大歳神社の南西側に阿弥陀堂がある。

 なぜこう書くかというと、ネット情報を信じて南側の大歳神社の周囲を探し回ったからである。

 近隣の方に訊いたりしたが、皆首をひねった。近くの駐在所に立ち寄ると、勤務員は不在だったが、備付の住宅地図を閲覧させてもらってようやく場所が分かった。

 この石造五重塔をわざわざ訪れようとする人は、先ずいないと思われるが、参考までに書いておく。

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阿弥陀堂

 阿弥陀堂のすぐ側に、無銘の石造五重塔がある。

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石造五重塔

 この時代の石造物は、大体銘が彫られているが、この石造五重塔は、何も文字が彫られていない。しかし、様式が古いので、昨日紹介した吸谷廃寺の石造塔婆と同じ鎌倉時代後期の作だと言われている。

 こんな地味な石造物を捜し歩いて、一体何が楽しいんだと疑問に思われるかも知れないが、鎌倉時代の遺物など、日本中にそう残っているものではない。ほとんどの日本人は、鎌倉時代のことを思い出すこともない。

 その時代のものを丹念に見て歩いて、写真に収めて公表するのも、大げさなようだが、その時代に生きた人々への弔いのような気がする。

北条の五百羅漢

 住吉神社、酒見寺から北に歩いて、北条小学校と北条中学校の間の道を抜ける。当日は、小学校のグラウンドで少年野球の試合が行われていた。

 学校を過ぎると、右手に天台宗の寺院である羅漢寺が見えてくる。

 この寺にあるのが、北条の五百羅漢と呼ばれる石仏群である。

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北条の五百羅漢

 地元で採れる高室石(凝灰岩)の角柱状石材を利用して彫られた羅漢立像等459体の石仏が並んでいる。

 石仏の中心は、釈迦三尊像とそれを挟むように立つ大日如来像と阿弥陀如来像である。

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五尊像

 これらの石仏を、いつ、誰が、何のために立てたかは不明である。

 南朝に味方したために赤松氏に滅ぼされた酒見社(住吉神社)の神主山一族の供養塔ではないかとか、天正元年(1573年)ごろ小谷城主赤松祐尚が戦死者の供養のために立てたとか、寛文年間の酒見寺再興に合わせて造られたとか、様々に言われているが、よく分かっていない。

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 素朴で古拙な味わいのある石仏群である。表情も少しづつ違いがあって、親や子に似た石仏がこの中にあると言われている。

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 よく見ると、手に扇子や箸のようなものを持っている石仏がある。

 石仏群の左側には、来迎二十五菩薩の石仏が並ぶ。

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来迎二十五菩薩

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阿弥陀如来

 来迎二十五菩薩とは、弥陀来迎の時に阿弥陀如来に従ってくる菩薩たちで、人々を必ず西方の極楽浄土に導いてくれる菩薩である。

 阿弥陀如来像は、背後から後光が射し、足元に蓮華座がある。

 境内には、青面金剛龍王を祀る庚申堂がある。

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庚申堂

 羅漢寺は、大正時代には荒廃しており、石仏群も倒壊、散乱していた。大正15年に、地元の人々の努力で、倒れていた石仏を並べ、御旅町にあった薬師堂を移築して羅漢堂とし、庚申堂を建てて寺院を再建した。

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本堂(羅漢堂)

 本堂(羅漢堂)には、薬師如来が祀られている。

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薬師如来

 北条の五百羅漢は、平成30年に、兵庫県重要文化財に指定された。五百羅漢の造立理由は明らかになっていないが、やはり戦乱が終息した江戸時代に入って、地元の誰かが戦乱や災害で亡くなった人々の供養のために立てたものではないかと思う。

 加西市北条町から西に行った吸谷町に慈眼寺観音堂がある。ここは、白鳳時代に建立された廃寺の跡でもある。吸谷廃寺という。

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吸谷廃寺(現観音堂

 ここからは、白鳳時代のものと思われる古瓦が多数発掘されている。廃寺の土壇は失われているが、当時の礎石は境内に集められ、庭石として利用されている。

 また、境内の片隅に、兵庫県指定文化財である石造塔婆がある。

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石造塔婆

 この石造塔婆には、蒙古襲来後の弘安六年(1283年)の銘があり、「結衆建立之」と彫られているらしい。結衆とは、何者なのだろうか。

 この塔婆は、四面に蓮華座が彫られ、その上に種子が薬研彫にされている。

 今に伝わる石造層塔には、蒙古襲来前後の時代に造られたものが多い。なぜこの時代に、多数の石造層塔が建てられたのだろう。蒙古襲来という時代の不安が関係しているのだろうか。

 石造物は、数ある素材の中で最も風化しにくいものである。石造の見事な芸術作品を造れば、目的や意味は時代と共に見失われても、石造物自体は千年後も人々を魅了し続けることが出来るだろう。

酒見寺

 住吉神社の東隣にあるのが、泉生山酒見寺である。

 酒見寺は、天平十七年(745年)に行基菩薩が建立したと伝えられている。現在は真言宗の寺院である。

 酒見寺は、天正年間(1573~1592年)に戦火で焼失したが、江戸時代初期の寛永十九年(1642年)に再建された。

 この江戸時代の酒見寺の再建には、大工村(現加西市大工町)の宮大工神田氏が関与しているという。

 まずは、文政八年(1825年)築の楼門から寺域に入る。楼門は、加西市指定文化財である。

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楼門

 上層周囲に縁を巡らした、本瓦葺、入母屋造りの楼門である。柱の上の斗栱組物が見事である。

斗栱組物

 楼門は、当時活躍した宇仁郷の大工神田左衛門の制作である。

 楼門から入ると、正面に本堂が見え、参道沿いに燈籠が並ぶ。

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境内

 楼門から境内に入って左手にあるのが、引聲堂である。

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引聲堂

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引聲堂の彫刻

 引聲堂は、常行堂とも呼ばれている。19世紀前期の建築である。ご本尊は阿弥陀如来と両脇侍である。

 ここでは、毎年9月10日のご本尊御開帳より、一週間引聲会式が行われる。阿弥陀経を独特の節で唱えながら、ご本尊の周囲を歩く法要である。

 阿弥陀如来は、真言宗では、曼荼羅の西方に居て、無量無辺の衆生を救う仏であるとされている。

 さて、楼門から入って右手にあるのが、国指定重要文化財の多宝塔である。

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多宝塔

 私が史跡巡りで訪れた二つ目の多宝塔である。この多宝塔の相輪には寛文二年(1662年)の刻銘があるので、その年の再建とされる。

 酒見寺多宝塔の上層は檜皮葺で、下層は本瓦葺である。上下で葺き方を異にしているのは大変珍しく、他に類例のないものだそうだ。

 多宝塔の外面は、極彩色であるが、内壁も同様の彩色が施されているという。

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 内部も是非拝観したいものだ。

 この極彩色の多宝塔の南側に隣接するのが、地味な宝暦四年(1754年)築の地蔵堂である。

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地蔵堂

 大地が汚物を捨てられてもそれを肥料にするが如く、地蔵菩薩は、悪行重罪の衆生を大地の徳の如くに大慈大悲の宝蔵の中に引き入れ、業障重罪の苦しみを衆生に代わって受け取り、衆生を極楽浄土に案内する仏であるという。

 これは地蔵堂の説明板に書いていた内容であるが、私は初めて地蔵の意味を知ることができた。

 多宝塔の北側には、観音堂がある。

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観音堂

 観音堂は、19世紀中期の建築である。

 本堂は、元禄二年(1689年)の建築である。

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本堂

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 一重裳階(ひとえもこし)付の入母屋造りで、中世仏堂の様式を良く守っているそうだ。

 ご本尊は秘仏の十一面観音菩薩である。61年に1回開扉されるという。

 本堂の東隣にある鐘楼は、兵庫県指定文化財である。こちらも多宝塔のように極彩色である。

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鐘楼

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 鐘楼は、寛文四年(1664年)の建築である。袴腰付鐘楼で、当初は朱色に塗られていたそうだ。

 和様を基調に、部分的に唐様を取り入れているらしい。窓の弓連子が唐様の意匠である。

 中に吊られている県指定文化財の梵鐘は、鐘楼より更に古く、貞治三年(1364年)の銘がある。

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 本坊の敷地内に、18世紀後期に建てられた護摩堂・持仏堂がある。

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護摩堂・持仏堂

 建物に向かって正面左側三間が護摩堂、右側二間が持仏堂である。

 本堂の裏には、御影堂がある。17世紀後期の建築である。

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御影堂

 御影堂には、弘法大師空海がご本尊として祀られている。本堂の奥に建っているので、この寺院の奥の院のような位置づけなのだろう。

 死期が近づいた弘法大師は、衆生を永遠に救い続けるという大誓願を立てて、高野山奥の院大日如来の印を結んで禅定に入り、承和二年(835年)3月21日に金剛定という仏の世界に御入定したという。

 真言宗では、今も弘法大師高野山奥の院で座禅を組みながら、人々のために生き続けていると信仰されていて、毎日僧侶が奥の院弘法大師の食事を運んでいる。

 真言密教の世界観はあまりに壮大で、到底把握しきれるものではないが、多宝塔や鐘楼の極彩色に象徴されるように、自分自身を含む世界全体を光り輝く生命と捉える教えである。

 確かに空海が把握したその世界観に気が付けば、空海はその人の中に生きていることになる。知らず知らず、人々は空海の祈りの中で生きているのかもしれない。

加西市 住吉神社

 兵庫県加西市北条町古坂にある加西市埋蔵文化財整理室の駐輪場横に、阿弥陀三尊の種子を刻んだ鎮岩(とこなべ)板碑がある。兵庫県指定文化財となっている。

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鎮岩板碑

 元々は、加西市鎮岩町の大日堂の境内にあったが、加西市が保存のため、この場所に移転した。

 種子が大きく、くっきりと薬研彫されている。裏に建治三年(1277年)の銘がある。当時は執権北条時宗の時代である。蒙古襲来の前の作だ。

 各地に文化財として保存されている石仏や石造五輪塔、石造の層塔は、鎌倉時代のものが多い。鎌倉時代には、仏教に関する石造彫刻を造るブームが起きていたのかもしれない。

 板碑の隣の駐輪場には、石棺の蓋が無造作に置かれていた。

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石棺の蓋

 古墳時代の石棺だが、こんなに雑然と外に置いていていいのかと思ってしまう。いずれにしろ、石棺が豊富に発掘される加西らしい光景だ。

 さて、埋蔵文化財整理室から西に行くと、住吉神社の御旅所がある。

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住吉神社御旅所

 御旅所とは、神様の渡御の際に神霊を一時的に安置する場所のことを指す。具体的にいうと、祭礼時に神様が乗った神輿を安置する場所である。神様の旅先の休憩場所みたいなものであろうか。大体本社から1~2キロメートルの場所に置かれる。

 住吉神社の御旅所も、本社から2キロメートルほど東にある。

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御旅所拝殿

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拝殿の獅子の彫刻

 この御旅所に祀られているのは、当地住民の祖神と言われる酒見神と住吉四神(住吉三神神功皇后)である。他に明治42年に近隣の大歳神社と八幡神社から合祀された大歳神と八幡神も祀られている。

 住吉神社は、江戸時代までは酒見社と呼ばれていた。創建は養老元年(717年)で、山酒人という人が、地元の人と相談して、酒見神と住吉四神を祀ったのが酒見社の始まりとされている。

 明治になって、社名を住吉神社に改めた。

 ところで、御旅所拝殿には、神紋である二つ引両と三つ巴が貼られていた。

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二つ引両と三つ巴紋

 これは、赤松家の家紋と同一である。住吉神社と赤松家の関係を示す史料の存在を私は知らないが、当社と赤松家の間には、何らかの関りがあったのだろう。

 毎年4月の第一土日に行われる節句祭りでは、御旅所で竜王舞という祭事が行われる。竜王の舞人は、東郷の横尾と西郷の小谷から1人づつ出る。両名が猿田彦に扮し、東郷が二つ引両の紋、西郷が三つ巴紋を染め抜いた胴衣を着て舞うそうだ。

 住吉神社の本社は、加西市北条町北条にある。

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住吉神社本社

 航海の神である住吉神が、なぜ海に接していない加西に祀られているかは謎である。

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住吉神社社殿

 住吉神社は、幅の広い拝殿の背後に幣殿があり、その後ろに住吉三神神功皇后を祀る本殿が三つ建っている。

 拝殿の彫刻がなかなか立派であった。浪間から太陽が昇る彫刻は、今までお目にかかったことがない。

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拝殿の彫刻

 本殿が3つ並ぶ姿は壮観である。

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本殿

 国宝となっている大阪の住吉大社本殿は、住吉造りと呼ばれている。直線的な破風が特徴的である。加西の住吉神社の本殿は、破風に反りがあるが、幅二間、奥行き四間という住吉造りの特徴を備えている。

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本殿の彫刻

 住吉神社拝殿、幣殿、本殿は、国登録有形文化財となっている。

 住吉神社社殿は平治の乱天正年間(1573~1592年)の兵火などで荒廃したが、江戸時代初期に姫路城主の池田輝政により復興された。

 現在の本社三殿は、嘉永四年(1851年)に再建されたものである。 境内中央には勅使塚が遺されており、現在は「鶏合わせ」や「龍王舞」など神事の場として使われるという。

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勅使塚と拝殿

 住吉神社の東隣には、酒見寺がある。江戸時代までは、酒見社と酒見寺は一体となっていたと思われる。

 明日は酒見寺を紹介する予定だが、同一敷地と言ってよい土地に、立派な神社と寺院が隣り合っている様子は、日本の信仰の形を表していて、微笑ましい。

瀬戸町

 現在岡山市東区瀬戸町と呼ばれている区域は、平成19年1月22日の岡山市への合併前は、赤磐郡瀬戸町という自治体であった。

 岡山市は、平成に広域合併を重ね、政令指定都市となった。中国地方では、広島市に次ぐ政令指定都市である。

 今日は、この瀬戸町の史跡を紹介する。

 11月5日の「田原井堰と田原用水」の回で紹介した田原用水は、赤磐市から瀬戸町に向けて流れている。

 瀬戸町森末には、田原用水開削工事の中でも難工事であった「切抜き」の跡がある。

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切抜きの石碑

 吉井川から取水された田原用水は、最後は今の瀬戸町を流れる砂川に合流した。

 この辺りは、吉井川区域と砂川区域の分水界となっていた。吉井川区域から砂川区域に田原用水を流すには、分水界の高まりを切り通す必要があった。

 そのため、深さ10メートル、長さ400メートルに渡って水路が掘られたという。

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切抜き付近の田原用水

 ご覧のように、道路のある地面より相当深いところを田原用水が流れている。今、田原用水が流れている場所が、元々平地だったと思えば、相当な難工事だったことが想像できる。

 岡山藩の土木工事の偉人津田永忠の面目躍如といったところだろう。

 切通しから西に行った瀬戸町宗堂地区は、岡山県天然記念物である八重桜「宗堂の桜」で有名である。

 今素戔嗚神社の建つ場所は、かつて日蓮宗不受不施派の宗堂山妙泉寺があった場所である。

 妙泉寺の住職だった雲哲上人は、寺の参道に桜を植えた。

 岡山藩日蓮宗不受不施派を徹底して弾圧し、同派の寺は次々と廃寺に追い込まれていった。

 寛文六年(1666年)、雲哲上人は、岡山藩主から会食に招かれ、食事に毒を盛られた。

 毒を口にした上人は、妙泉寺の仁王門まで辿り着き、そこで息絶えたという。

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雲哲上人供養塔

 雲哲上人の死後、妙泉寺の八重桜は、上人の死を悼んでか、花びらが開き切らずに咲くようになったと言われている。宗堂の桜は、約60枚の花弁のうち、内側約20枚が開き切らず反転して二重の弁となる珍しい桜である。

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宗堂の桜

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 花見の季節に来てみたいものだ。宗堂の桜は、宗堂以外の地域に移し植えても、色が変化し、特性を示さなくなるという。

 雲哲上人の供養塔の横には、高砂の竜山石製の石棺を使って造られたお題目の碑と手洗いがある。

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妙泉寺跡の手洗い

 日蓮宗不受不施派は、地域の豪族から百姓までを強い信仰の絆で結んでいた。岡山藩にとっては、脅威だったのだろう。

 宗堂地区から北上し、瀬戸町塩納山ノ池に行く。ここは昨日紹介した岡山県の桃栽培の第一人者大久保重五郎の出身地で、大久保が果樹園を開いた地である。

 ここに大久保重五郎の顕彰碑が建つ。

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大久保重五郎顕彰碑

 大久保重五郎顕彰碑のすぐ近くに、岡山県指定史跡である松田元成及び大村盛恒の墓所がある。

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松田元成・大村盛恒墓所

 松田元成は、室町時代備前西部に勢力を張った武将で、金川城(岡山市北区御津町)を拠点にしていた。

 元成は、文明十五年(1483年)から赤松氏と配下の浦上氏を攻撃し始めた。文明十六年に福岡合戦で勝利したが、続く天王原の合戦で敗北し、この地にあった光長寺まで退いて自刃した。

 松田元成の重臣だった大村盛恒は、出雲の尼子氏に援助を頼みに行ったが、帰国すると主君が既に亡くなっていたので、追い腹を切った。

 元成の子の元勝が、この地に二人の墓と大乗寺という寺院を建てたという。

 向かって右側の無縫塔が松田元成の墓で、左側の宝篋印塔が大村盛恒の墓である。

 光長寺大乗寺も、日蓮宗不受不施派であったが、寛文六年(1666年)に岡山藩によって廃寺に追い込まれたそうだ。

 瀬戸町塩納から東に行く。瀬戸町万富の田原用水によってU字型に囲まれた小丘陵の上に、国指定史跡である万富東大寺瓦窯跡がある。

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万富東大寺瓦窯跡の碑

 奈良東大寺は、治承四年(1180年)の平氏による南都焼討によって、壊滅的な損害を受けた。

 その後東大寺再建のための造営大勧進職に任命された俊乗房重源は、良質の粘土が取れて、吉井川の水運が発達していたこの地に、東大寺の瓦を焼くための瓦窯を建設した。

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当時の瓦窯の様子

 ここでは、30万~40万枚の瓦が焼かれたという。万富産の東大寺の軒瓦は、梵字を中心にして、周囲に「東大寺大仏殿」と銘文が配置されたという。

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復元された万富産東大寺軒瓦

 平瓦にも「東大寺」と陽刻されたものがあるという。東大寺以外の岡山県内外の寺院でもこの瓦が発掘されている。重源の影響のあった寺院で使用されたようだ。

 鎌倉時代に再建された東大寺大仏殿は、今はもうないが、きっとこの瓦が屋根の上に乗っていたことだろう。

 瓦窯跡の発掘では、地下から建物の礎石や、瓦を利用した暗渠排水設備の跡が見つかった。

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万富東大寺瓦窯跡の遺跡

 今の瓦窯跡は、ただの小丘陵で、遺跡があったことを示す石碑と説明板がなければ、過去に瓦窯があったとは分からない。

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今の瓦窯跡

 東大寺は、奈良時代に日本全国に建てられた国分寺の本山(総国分寺)という位置づけで、日本仏教の中心として造営された寺である。

 治承四年の南都焼討は、文化財の伝承という意味では残念だったが、その再建を国家が熱意を傾けて行ったため、慶派仏師作の南大門仁王像などの新たな文化遺産が生まれたとも言える。

 何かを喪失することは辛い体験だが、それを乗り越えようとする努力から、また新しい何かが生まれるということだろう。