極楽山浄土寺 前編

 兵庫県小野市浄谷町にある極楽山浄土寺は、東播磨に4つある「国宝の寺」の一つである。現在は真言宗の寺院となっている。

 浄土寺と言えば、何といっても国宝浄土堂と快慶作の国宝阿弥陀如来立像及び両脇侍像であるが、それ以外にも見所は多い。

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浄土寺伽藍の模型

 好古館に浄土寺伽藍の模型があった。今もこの模型のままの伽藍が残っている。

 向かって中央上部に浄土寺鎮守の八幡神社があり、その右に薬師堂、左に浄土堂が建っている。

 東大寺は、治承四年(1181年)の平家による南都焼討によって大半が焼失したが、東大寺再建の勧進聖となった俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)は、東大寺再建の費用に当てるため、建久三年(1192年)、東大寺領だった大部荘(今の小野市周辺)に甥の観阿弥陀仏を派遣し、荘園整備を始める。

 同年、重源は、大部荘経営の拠点とするため、浄土寺を建立する。途中焼失して再建した建物もあるが、建立当時の伽藍の姿を、ほぼ元のまま現代に伝えている点が貴重である。

 浄土寺鎮守の八幡神社は、境内北側中央に鎮座する。

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八幡神社

 東大寺の鎮守が手向山八幡神社であるように、東大寺の末寺には八幡神社が祀られていることが多い。当社の創建は、嘉禎元年(1235年)である。

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八幡神社拝殿

 拝殿は、創建時の建物ではないが、和様、唐様、天竺様の建築様式を折衷し、室町時代の特徴を残しているという。中央に通路のある割拝殿である。

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拝殿

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 本殿は、室町時代中期の代表的な檜皮葺、三間社流造の建物である。鮮やかな朱色に彩色されている。

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八幡神社本殿

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 蟇股や手挟の彫刻が室町期の様式である。

 本殿の東側には、収蔵庫が建ち、更にその東には不動堂が建つ。

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不動堂

 境内東側に建つ薬師堂(本堂)は、建久八年に建立されたが、明応七年(1498年)に焼失した。その後、永正十四年(1517年)に再建されている。

 桁行五間、梁間五間、単層、屋根宝形造、本瓦葺で、浄土堂とほぼ同じ大きさである。

 当初は浄土堂と同じく大仏様(天竺様)で建設されたが、再建時に和様が混ざり、建築様式の変遷を見ることが出来るという。

 国指定重要文化財である。

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薬師堂

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 薬師堂のご本尊は、浄土寺建立時に既に荒廃していた広渡寺の仏像などを集めて祀ったとされている。

 薬師堂の南側には、重源上人像を祀る開山堂がある。こちらは兵庫県指定文化財である。

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開山堂

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重源上人坐像

 重源上人坐像は、国指定重要文化財である。

 重源上人は、保安二年(1121年)に紀季重の子として生まれ、俗名を刑部左衛門尉重定と言った。13歳の時、醍醐寺に入り、真言の修行に専念した。早くから宋に渡り、宋文化への造詣を深め、建築、工芸等の技術にも習熟した。

 日本に戻って、東大寺再建勧進聖となって、大仏様(天竺様)というインドの建築様式を導入し、東大寺再建の大事業を成し遂げた。東大寺以外にも、この浄土寺を始め、数々の寺院を興したと言われている。

 重源上人は、建永元年(1206年)、東大寺浄土堂にて86年の生涯を閉じた。

 重源上人は僧侶ではあるが、平安、鎌倉時代の、というより日本史上の偉大な建築家の一人に数えてよいと思う。

 次回に、今に残る重源上人の名作、浄土堂を紹介しようと思う。