腰袴付鐘楼で、均整の取れた姿をしている。
鐘楼は、加東郡河合郷新部村の粟津七右衛門という者が建立した。浄土寺塔頭歓喜院所蔵の、粟津七右衛門位牌厨子扉裏にそのことが書かれているそうだ。鐘楼は、兵庫県指定文化財である。
さて浄土寺を代表する建物、国宝浄土堂(阿弥陀堂)は、境内の西側に位置する。
浄土堂は、建久五年(1194年)に上棟された。重源上人が宋で習得してきた大仏様(天竺様)という建築様式で建てられている。
浄土堂は、建立されてから昭和32年の最初の解体修理までの約770年間、一度も解体修理を受けずに風雪に耐えてきた。それだけでも偉大である。
大仏様と言われても、図を見なければ理解が難しいと思われるので、好古館に掲示していた浄土寺の説明板の写真を掲載する。
また、浄土堂内部の模型は、兵庫県立歴史博物館と好古館にて展示されている。
浄土堂の内部は写真撮影不可なので、これらの図や模型を元に説明していく。
浄土堂は、これほど広壮な建物でありながら、内部には柱が4本しかない。これだけでどうやって巨大な屋根を支えているのか。虹梁という横に渡した木材で、この4本の柱と外側の柱をつなぎ、柱から上に差し出した斗栱で屋根を支えている。
これらの図や模型から、重い瓦の載る屋根の重みを、4本の柱と外周の柱だけで支えている、大仏様の複雑かつ合理的な構造が見て取れる。
この構造だと、建物内部に建つ柱が少なくて済むので、内部空間を広く活用できる。
屋根の四隅は、斗栱と挿肘木で支えている。
そして、建物内部の4本の柱の中に、快慶作の国宝阿弥陀如来立像及び両脇侍像が祀られている。
この阿弥陀三尊像は、西を背後にして立っている。
浄土堂は、丘陵の最も西側に建っている。西日を遮るものはない。浄土堂西側は、蔀戸になっていて、夕方になるとそこから西日が射しこみ、阿弥陀三尊像の後光が輝くように、像の背後が光り輝く仕掛けになっている。
また、西日は床板に反射して、像の表面にも当たり、金色に塗られた阿弥陀三尊像全体が輝くようになっている。
阿弥陀如来は、臨終の時に、西方浄土から人々を迎えに来ると信仰されている。
阿弥陀如来が西日に輝く浄土堂は、重源上人が浄土をこの世に再現する意図で建てたものだろう。
屋根を見上げると、浄土堂の軒丸瓦と軒平瓦には、南無阿弥陀仏と彫られているのが確認できる。
今浄土堂に載っている瓦は、創建当時のものではない。創建当時の瓦は、好古館に展示している。
令和元年12月18日の「瀬戸町」の記事で紹介したように、重源上人は、現在の岡山市東区瀬戸町万富の地に、東大寺再建に使用するための瓦を製造する瓦窯を造った。そこで生産された瓦が、鎌倉時代の東大寺再建に使用された。
「瀬戸町」の記事に写真掲載している、再現された東大寺大仏殿の瓦と浄土堂の瓦は瓜二つである。おそらく、浄土堂の瓦も、東大寺と同じく、万富で焼かれた瓦を使ったことだろう。
重源上人は、鎌倉時代に大仏様を用いて、東大寺大仏殿と南大門を再建した。しかし、大仏殿は、戦国時代に松永久秀によって焼かれてしまった。
そのため、大仏様で建てられた建物で、日本に現存するのは、東大寺南大門と浄土寺浄土堂の二棟だけになった。
南大門には、運慶・快慶作の金剛力士像が設置されている。一方浄土堂には、同じく快慶作の阿弥陀三尊像が祀られている。
更に、先ほど述べたように、この二棟が使用している瓦は、両方万富で生産された瓦である可能性が高い。
この3点から導き出される結論は、「東大寺南大門と浄土寺浄土堂は、鎌倉時代に建造された、建築物の兄弟である」ということである。しかも、南大門の建築は正治元年(1199年)なので、浄土堂の方が年長、つまり兄である。
この結論に達した時、私は人知れず感動した。何に感動したかというと、源平争乱で荒廃した日本に、自分が学んだ建築技術を駆使して、仏国土を建設しようとした重源上人の熱意に対してである。
さて、最後に余談になるが、浄土堂の南側に、今上陛下が皇太子殿下の時代にお植えになった松があった。
盆栽のように綺麗に剪定され、大切に育てられているのが分かる。
今から1000年後、その時代に浄土堂が遺っていて、その隣に巨樹となったこの松があれば、人々は重源上人の時代と令和の御代を並んで偲ぶことになるだろうと思った。
歴史というものは、人々が大事に思い返すことによって、輝きを増すものである。