林野の町から国道179号線を北上すると、左手に三星山が見えてくる。この山の麓にあるのが三星城跡である。
美作中央病院の裏に三星山の登り口がある。
登山口には、明見三星稲荷の鳥居がある。この先で道が左右に分かれる。左に行けば、明見三星稲荷があり、右に行けば三星城跡がある。
応保年間(1161~1163年)、土豪渡辺氏の居館として、この地に妙見城が築城された。
延元四年(1339年)、足利氏の下でこの地の地頭職となった後藤氏が、妙見城に入城し、三星城と名を改める。
後藤氏は、その後勢力を拡大した。戦国時代に入り、後藤勝基の代となって、後藤氏は最盛期を迎える。
勝基は、美作東部を制圧し、信長とも交わりを持ちつつ、領国を固めていった。
永禄三年(1561年)、勝基は21歳の時、宇喜多直家の息女千代を妻に迎える。
しかし、真木山長福寺の寺領争いに端を発して、備前の宇喜多と美作の後藤は対立する。
天正七年(1579年)、宇喜多軍が東作(美作東部)に侵攻し、激戦となる。数で優る宇喜多軍は、後藤氏の城を次々と陥落させ、林野城を突破し、三星城麓の明見原に布陣する。
天正七年五月二日、明見原で宇喜多軍と後藤軍は決戦した。後藤軍は、奇襲攻撃や地形を利用した山岳戦を行ったが、三星城内に内応者を作って火攻めを行うなどの調略を尽くした宇喜多軍に敗北した。
敗北を悟った勝基は、長年苦労を共にした家臣達に礼を述べ、自分たちの郷里に戻るように諭した後、城に火を放って脱出し、長内村大庵寺で自刃した。
三星城本丸跡は、三段の台地となっている。三段目からは麓の町を見下ろすことが出来る。
三星城の戦役は、秀吉による備中高松城攻めを除けば、戦国時代の吉備美作地域最大の戦いとされている。
天正7年は、本能寺の変の3年前である。宇喜多直家は、後藤勝基を倒して、今の岡山県のほぼ全域を支配下に置いたが、その後すぐ東に迫っていた織田の軍門に下り、秀吉と共に毛利を攻めるようになる。
本丸跡一段目には、忠魂碑が建ち、その横に後藤勝基の墓とされる五輪塔が建っている。
勝基の墓とされる五輪塔は、背後の木の根が盛り上がってきているせいで、前に傾き始めている。
この五輪塔は、勝基が亡くなってから、かなり経ってから建てられたものではないか。
浦上宗景も後藤勝基も、領地をそれなりに広げ、一時は軌道に乗っていた武将たちである。彼らが天下を取るに至らなかったのは何故であろうか。どこかに読みの甘さがあったのか。
信長もスタート地点では、浦上宗景や後藤勝基とそれほど変わらない一地方の武将に過ぎなかった。それが天下統一目前まで行ったのだから、信長は革命的な天才であったと言える。秀吉も家康も、信長が敷いたレールを走って天下を取ったと言ってもいいので、今の日本を準備したのは信長だったと解釈してもいい。
三星城から西に走り、勝田郡勝央町に入る。東吉田にある東光寺に行く。
この東光寺の山門前の小さな地蔵堂の中に、岡山県指定重要文化財である石造地蔵菩薩立像(吉田の油地蔵)が祀られている。
地蔵堂の中に入ると、むっとするほど植物性油の匂いがした。
石造地蔵菩薩立像は、花崗岩の自然石に地蔵を彫り込んだものである。この地蔵に油をかけて祈れば、どんな難病でも治るという信仰から、今でも地蔵に油をかけにくる人が絶えない。
石造地蔵菩薩立像には、「康暦二(1380年)庚申二月廿九日立午時 願主圓佛敬白」の銘がある。
この像は、ある時まで、東光寺麓の滝川のほとりの水田の中に埋もれていたらしい。ある人が掘り出してから、東光寺参道入口に祀られるようになったが、大正13年に現在地に移されたという。
これほど昔に造られた石造仏であれば、もう少し風化していても良さそうなものだが、花崗岩という硬質な岩石のせいなのか、水田の中に長期間埋まっていたせいなのか、風化は進んでおらず、銘文や描線を明確に認識できる。
日本全国の屋外に建つ仏像のうち、地蔵は圧倒的多数を占めると思われる。それだけ日本人から親しみを持たれ、人々の願いを受け入れてきた仏像である。
家の近くのお地蔵様にも、もう少し関心を持ってみようかと思う。