加西市 東光寺

 加西市殿原町の加西市立泉小学校の東隣に、国府寺という天台宗の寺院がある。ここは、白鳳時代の寺院の廃寺跡でもある。殿原廃寺という。

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殿原廃寺跡

 とは言え、今の国府寺には、白鳳時代に寺院があったことを示すものは何もない。

 門から入って左手の庭園の辺りが、かつて塔礎が発掘された場所である。

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かつて塔が建っていた場所

 白鳳時代に寺院があった場所を地図に落としていったら、7世紀の日本の人口分布がある程度分かるのではないか。

 次なる目的地、加西市上万願寺町にある有明山東光寺を訪れる。

 ここも白雉二年(651年)に法道仙人が開基した寺院である。現在は、天台宗の寺院である。

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東光寺

 法道仙人が開基したのは、有明山万願寺という寺院であった。万願寺には、北の坊、南の坊、奥の坊といった諸院があったが、天文七年(1538年)に戦火で焼失した。天文九年(1540年)に子院である南の坊を再興し、有明山東光寺とした。

 本堂は、別名薬師堂と称し、薬師如来をご本尊として祀っている。

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本堂(薬師堂)

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本堂内の厨子

 本堂内の薬師如来を収める厨子は、どう見ても神社建築の様式である。神仏習合の一端を、ここでも窺うことができる。

 東光寺では、毎年1月8日に、鬼会と呼ばれる行事が行われる。国指定の重要無形文化財となっている。

 鬼会は、田遊びと鬼追いという二つの行事を合わせたものである。

 田遊びは、厄男が扮する福太郎と福次郎が、田主に呼ばれて鍬を担いで登場し、恵方に向かって田を耕し、苗代に種を撒くなど、様々な農作業を演じる行事である。

 その後鬼追いとなり、厄男が扮した赤鬼青鬼が登場する。鬼は、鬼の子と呼ばれる子供達に追いかけられ、松明や鉾を振り回しながら堂内を巡る。

 鬼が退場すると、参詣者が本堂前に飾られた鬼の花(丸木を削って造る削り花)を得ようと集まる。

 摂津から播磨に伝わる鬼追いの行事で、田遊びの儀礼が結びついて伝承されているのは、東光寺の鬼会だけであるらしい。

 境内には、兵庫県指定文化財である東光寺梵鐘がある。 

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東光寺梵鐘

 銘文によると、この梵鐘は、観応元年(1350年)に鋳造され、播州多可郡安田荘禅光寺の梵鐘として使われていた。その後、宝徳三年(1451年)に播州多可郡大幡庄の熊野三社権現の梵鐘となり、文禄四年(1595年)に東光寺の梵鐘となったという。

 一時は手荒く扱われたらしく、梵鐘上部に窪みや小さな穴がある。激動の時代を経巡ってきて、今ここにある梵鐘に敬意を表したい。

 東光寺の西隣には、若一(にゃくいち)神社がある。

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若一神社拝殿

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若一神社本殿

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本殿前の狛犬

 祭神は市杵島姫命であるらしい。

 本殿前の、尾が分かれた狛犬が素敵だったので、つい写真に収めてしまった。尾の螺旋様の飾りなど、なかなか彫れるものではないと思う。

 東光寺と若一神社も、神と仏が同居する日本の信仰の形を表している。

 東光寺を出発し、加西市坂元町にある阿弥陀堂の石造五重塔を訪れる。坂元町には、二つの大歳神社があるが、北側の大歳神社の南西側に阿弥陀堂がある。

 なぜこう書くかというと、ネット情報を信じて南側の大歳神社の周囲を探し回ったからである。

 近隣の方に訊いたりしたが、皆首をひねった。近くの駐在所に立ち寄ると、勤務員は不在だったが、備付の住宅地図を閲覧させてもらってようやく場所が分かった。

 この石造五重塔をわざわざ訪れようとする人は、先ずいないと思われるが、参考までに書いておく。

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阿弥陀堂

 阿弥陀堂のすぐ側に、無銘の石造五重塔がある。

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石造五重塔

 この時代の石造物は、大体銘が彫られているが、この石造五重塔は、何も文字が彫られていない。しかし、様式が古いので、昨日紹介した吸谷廃寺の石造塔婆と同じ鎌倉時代後期の作だと言われている。

 こんな地味な石造物を捜し歩いて、一体何が楽しいんだと疑問に思われるかも知れないが、鎌倉時代の遺物など、日本中にそう残っているものではない。ほとんどの日本人は、鎌倉時代のことを思い出すこともない。

 その時代のものを丹念に見て歩いて、写真に収めて公表するのも、大げさなようだが、その時代に生きた人々への弔いのような気がする。