住吉神社の東隣にあるのが、泉生山酒見寺である。
酒見寺は、天平十七年(745年)に行基菩薩が建立したと伝えられている。現在は真言宗の寺院である。
酒見寺は、天正年間(1573~1592年)に戦火で焼失したが、江戸時代初期の寛永十九年(1642年)に再建された。
この江戸時代の酒見寺の再建には、大工村(現加西市大工町)の宮大工神田氏が関与しているという。
まずは、文政八年(1825年)築の楼門から寺域に入る。楼門は、加西市指定文化財である。
上層周囲に縁を巡らした、本瓦葺、入母屋造りの楼門である。柱の上の斗栱組物が見事である。
楼門は、当時活躍した宇仁郷の大工神田左衛門の制作である。
楼門から入ると、正面に本堂が見え、参道沿いに燈籠が並ぶ。
楼門から境内に入って左手にあるのが、引聲堂である。
引聲堂は、常行堂とも呼ばれている。19世紀前期の建築である。ご本尊は阿弥陀如来と両脇侍である。
ここでは、毎年9月10日のご本尊御開帳より、一週間引聲会式が行われる。阿弥陀経を独特の節で唱えながら、ご本尊の周囲を歩く法要である。
阿弥陀如来は、真言宗では、曼荼羅の西方に居て、無量無辺の衆生を救う仏であるとされている。
さて、楼門から入って右手にあるのが、国指定重要文化財の多宝塔である。
私が史跡巡りで訪れた二つ目の多宝塔である。この多宝塔の相輪には寛文二年(1662年)の刻銘があるので、その年の再建とされる。
酒見寺多宝塔の上層は檜皮葺で、下層は本瓦葺である。上下で葺き方を異にしているのは大変珍しく、他に類例のないものだそうだ。
多宝塔の外面は、極彩色であるが、内壁も同様の彩色が施されているという。
内部も是非拝観したいものだ。
この極彩色の多宝塔の南側に隣接するのが、地味な宝暦四年(1754年)築の地蔵堂である。
大地が汚物を捨てられてもそれを肥料にするが如く、地蔵菩薩は、悪行重罪の衆生を大地の徳の如くに大慈大悲の宝蔵の中に引き入れ、業障重罪の苦しみを衆生に代わって受け取り、衆生を極楽浄土に案内する仏であるという。
これは地蔵堂の説明板に書いていた内容であるが、私は初めて地蔵の意味を知ることができた。
多宝塔の北側には、観音堂がある。
観音堂は、19世紀中期の建築である。
本堂は、元禄二年(1689年)の建築である。
一重裳階(ひとえもこし)付の入母屋造りで、中世仏堂の様式を良く守っているそうだ。
ご本尊は秘仏の十一面観音菩薩である。61年に1回開扉されるという。
本堂の東隣にある鐘楼は、兵庫県指定文化財である。こちらも多宝塔のように極彩色である。
鐘楼は、寛文四年(1664年)の建築である。袴腰付鐘楼で、当初は朱色に塗られていたそうだ。
和様を基調に、部分的に唐様を取り入れているらしい。窓の弓連子が唐様の意匠である。
中に吊られている県指定文化財の梵鐘は、鐘楼より更に古く、貞治三年(1364年)の銘がある。
本坊の敷地内に、18世紀後期に建てられた護摩堂・持仏堂がある。
建物に向かって正面左側三間が護摩堂、右側二間が持仏堂である。
本堂の裏には、御影堂がある。17世紀後期の建築である。
御影堂には、弘法大師空海がご本尊として祀られている。本堂の奥に建っているので、この寺院の奥の院のような位置づけなのだろう。
死期が近づいた弘法大師は、衆生を永遠に救い続けるという大誓願を立てて、高野山奥の院で大日如来の印を結んで禅定に入り、承和二年(835年)3月21日に金剛定という仏の世界に御入定したという。
真言宗では、今も弘法大師が高野山奥の院で座禅を組みながら、人々のために生き続けていると信仰されていて、毎日僧侶が奥の院に弘法大師の食事を運んでいる。
真言密教の世界観はあまりに壮大で、到底把握しきれるものではないが、多宝塔や鐘楼の極彩色に象徴されるように、自分自身を含む世界全体を光り輝く生命と捉える教えである。
確かに空海が把握したその世界観に気が付けば、空海はその人の中に生きていることになる。知らず知らず、人々は空海の祈りの中で生きているのかもしれない。