瀬戸町

 現在岡山市東区瀬戸町と呼ばれている区域は、平成19年1月22日の岡山市への合併前は、赤磐郡瀬戸町という自治体であった。

 岡山市は、平成に広域合併を重ね、政令指定都市となった。中国地方では、広島市に次ぐ政令指定都市である。

 今日は、この瀬戸町の史跡を紹介する。

 11月5日の「田原井堰と田原用水」の回で紹介した田原用水は、赤磐市から瀬戸町に向けて流れている。

 瀬戸町森末には、田原用水開削工事の中でも難工事であった「切抜き」の跡がある。

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切抜きの石碑

 吉井川から取水された田原用水は、最後は今の瀬戸町を流れる砂川に合流した。

 この辺りは、吉井川区域と砂川区域の分水界となっていた。吉井川区域から砂川区域に田原用水を流すには、分水界の高まりを切り通す必要があった。

 そのため、深さ10メートル、長さ400メートルに渡って水路が掘られたという。

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切抜き付近の田原用水

 ご覧のように、道路のある地面より相当深いところを田原用水が流れている。今、田原用水が流れている場所が、元々平地だったと思えば、相当な難工事だったことが想像できる。

 岡山藩の土木工事の偉人津田永忠の面目躍如といったところだろう。

 切通しから西に行った瀬戸町宗堂地区は、岡山県天然記念物である八重桜「宗堂の桜」で有名である。

 今素戔嗚神社の建つ場所は、かつて日蓮宗不受不施派の宗堂山妙泉寺があった場所である。

 妙泉寺の住職だった雲哲上人は、寺の参道に桜を植えた。

 岡山藩日蓮宗不受不施派を徹底して弾圧し、同派の寺は次々と廃寺に追い込まれていった。

 寛文六年(1666年)、雲哲上人は、岡山藩主から会食に招かれ、食事に毒を盛られた。

 毒を口にした上人は、妙泉寺の仁王門まで辿り着き、そこで息絶えたという。

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雲哲上人供養塔

 雲哲上人の死後、妙泉寺の八重桜は、上人の死を悼んでか、花びらが開き切らずに咲くようになったと言われている。宗堂の桜は、約60枚の花弁のうち、内側約20枚が開き切らず反転して二重の弁となる珍しい桜である。

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宗堂の桜

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 花見の季節に来てみたいものだ。宗堂の桜は、宗堂以外の地域に移し植えても、色が変化し、特性を示さなくなるという。

 雲哲上人の供養塔の横には、高砂の竜山石製の石棺を使って造られたお題目の碑と手洗いがある。

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妙泉寺跡の手洗い

 日蓮宗不受不施派は、地域の豪族から百姓までを強い信仰の絆で結んでいた。岡山藩にとっては、脅威だったのだろう。

 宗堂地区から北上し、瀬戸町塩納山ノ池に行く。ここは昨日紹介した岡山県の桃栽培の第一人者大久保重五郎の出身地で、大久保が果樹園を開いた地である。

 ここに大久保重五郎の顕彰碑が建つ。

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大久保重五郎顕彰碑

 大久保重五郎顕彰碑のすぐ近くに、岡山県指定史跡である松田元成及び大村盛恒の墓所がある。

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松田元成・大村盛恒墓所

 松田元成は、室町時代備前西部に勢力を張った武将で、金川城(岡山市北区御津町)を拠点にしていた。

 元成は、文明十五年(1483年)から赤松氏と配下の浦上氏を攻撃し始めた。文明十六年に福岡合戦で勝利したが、続く天王原の合戦で敗北し、この地にあった光長寺まで退いて自刃した。

 松田元成の重臣だった大村盛恒は、出雲の尼子氏に援助を頼みに行ったが、帰国すると主君が既に亡くなっていたので、追い腹を切った。

 元成の子の元勝が、この地に二人の墓と大乗寺という寺院を建てたという。

 向かって右側の無縫塔が松田元成の墓で、左側の宝篋印塔が大村盛恒の墓である。

 光長寺大乗寺も、日蓮宗不受不施派であったが、寛文六年(1666年)に岡山藩によって廃寺に追い込まれたそうだ。

 瀬戸町塩納から東に行く。瀬戸町万富の田原用水によってU字型に囲まれた小丘陵の上に、国指定史跡である万富東大寺瓦窯跡がある。

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万富東大寺瓦窯跡の碑

 奈良東大寺は、治承四年(1180年)の平氏による南都焼討によって、壊滅的な損害を受けた。

 その後東大寺再建のための造営大勧進職に任命された俊乗房重源は、良質の粘土が取れて、吉井川の水運が発達していたこの地に、東大寺の瓦を焼くための瓦窯を建設した。

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当時の瓦窯の様子

 ここでは、30万~40万枚の瓦が焼かれたという。万富産の東大寺の軒瓦は、梵字を中心にして、周囲に「東大寺大仏殿」と銘文が配置されたという。

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復元された万富産東大寺軒瓦

 平瓦にも「東大寺」と陽刻されたものがあるという。東大寺以外の岡山県内外の寺院でもこの瓦が発掘されている。重源の影響のあった寺院で使用されたようだ。

 鎌倉時代に再建された東大寺大仏殿は、今はもうないが、きっとこの瓦が屋根の上に乗っていたことだろう。

 瓦窯跡の発掘では、地下から建物の礎石や、瓦を利用した暗渠排水設備の跡が見つかった。

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万富東大寺瓦窯跡の遺跡

 今の瓦窯跡は、ただの小丘陵で、遺跡があったことを示す石碑と説明板がなければ、過去に瓦窯があったとは分からない。

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今の瓦窯跡

 東大寺は、奈良時代に日本全国に建てられた国分寺の本山(総国分寺)という位置づけで、日本仏教の中心として造営された寺である。

 治承四年の南都焼討は、文化財の伝承という意味では残念だったが、その再建を国家が熱意を傾けて行ったため、慶派仏師作の南大門仁王像などの新たな文化遺産が生まれたとも言える。

 何かを喪失することは辛い体験だが、それを乗り越えようとする努力から、また新しい何かが生まれるということだろう。