桜が散り始めた4月10日に美作の旅をした。
スイフトスポーツを道の駅久米の里に駐車して、西に歩く。久米廃寺の跡は、道の駅久米の里の西側の、中国縦貫自動車道の高架下にある。
久米廃寺は、白鳳時代(7世紀後半)にこの地に建てられた仏教寺院である。平安時代初期には、既に廃寺になっていたという。
近くには、久米郡衙跡の宮尾遺跡がある。郡衙は郡の政庁のあった場所で、郡司はそこで勤務した。
飛鳥白鳳時代には、古くから勢威を誇った地方の豪族は郡司に任命され、国家の機構に吸収されていった。
白鳳時代には、郡司が郡衙の近くに寺院を建てることが多かった。当時は、政治と仏教の結びつきが強固だったのだろう。
久米廃寺は、昭和の中国縦貫自動車道の建設に際し発掘された。
塔を中心に東側に金堂、西側に講堂が建てられ、その周りを回廊が囲むという独特な形式である。
塔の心礎石は現在も現地に残っている。
久米廃寺には、古代の土壇の跡がそのまま残っている。白鳳時代の廃寺の遺跡に行くと、土壇が新たに復元されていることが多いが、久米廃寺の土壇は、かなり古びたものであり、当時の土壇であることは間違いないだろう。
特に塔跡と金堂跡の南側にある土壇の端部は、かなり古いものに見える。こういうものを見ると、地面から化石を掘り当てたような静かな興奮を覚える。
塔跡には、心礎石が一つ残されている。
心礎石の中央に開いた穴の直径はさほど大きくない。ここに嵌っていた柱の直径からして、小ぶりな塔が建っていたのではないかと思う。
塔跡の東側には金堂跡がある。
金堂は、今でいう本堂の事で、寺院の中心となっていた建物である。ここには定めて立派な仏像が安置されていたことだろう。
令和2年8月30日に訪問した津山郷土博物館には、久米廃寺から発掘された塑像の仏菩薩像の破片が展示されていた。
塑像とは、心木に荒縄を巻き付け、その上に粘土をくっつけて盛り上げて造形する像である。
出来上がった像を焼成しないので、もろく崩れやすいのだろう。日本国内で残っている塑像の仏像はほとんどない。
それにしても、粘土で出来た仏像はそうお目にかかれるものではない。白鳳時代には、日本に多くの塑像仏があったのだろうか。
塔の西側には、僧侶が教義について学んだり、修行をした場所である講堂跡がある。
講堂跡の土壇は、塔跡、金堂跡のものより大きかった。講堂は大きな建物だったのだろう。
講堂跡の土壇の脇には、いつの頃のものか分らぬ小さな石造五輪塔があった。
また、金堂の東側には僧の居住棟である僧坊跡がある。
久米廃寺の東約300メートルの丘陵から発掘されたのが、古代久米郡の郡衙跡の宮尾遺跡である。
宮尾遺跡のあった場所は、今は中国縦貫自動車道が通っている。ここには郡の政庁である郡衙があった場所だ。昭和の発掘では、建物の掘立柱の跡が見つかっている。
かつて地方の豪族は、古墳を築いて祖先を祀る祭礼を行っていたが、大化二年(646年)に孝徳天皇により出された薄葬令によって、古墳の築造が禁止された。
ここに古墳時代が終わった。地方に寺院が建てられだしたのは、この薄葬令以降である。
豪族は、薄葬令をきっかけに、先祖供養のありかたを、古墳での祭礼から仏教寺院を築いて仏法僧を敬うことに切り替えたのではないか。
さて、番外になるが、道の駅久米の里には、なぜか機動戦士Zガンダムの巨大模型が設置されている。
アニメ「機動戦士Zガンダム」は、昭和60年に放送された。「機動戦士ガンダム」の続編である。
当時私は小学6年生だったが、名作と言っていいファーストガンダムと比べて、Zはもう一つピンとこなかった。
このZガンダムの模型は、地元の中元正一氏が自ら設計図を描き、独力で制作したもので、鋼鉄製の内部骨格と強化繊維プラスチック製の外装を持つ。全高約7メートル、重量約2トンである。
驚くべきは、コクピットに人が乗り込んで、機械の一部を動かすことが出来ることである。平成11年12月に完成した。
私も思わずZガンダムの前で、ZC33Sスイフトスポーツの記念撮影をした。
Zガンダムは、ウェイブライダーという飛行形態に変形して高速で移動でき、ハイメガランチャーという長射程高出力のビーム砲を持つ。
どうも軽量で加速力のあるスイフトスポーツに似ているような気がする。しかし、別段カミーユ・ビダンの気分になったわけではない。
美作は、播磨から出雲に抜ける出雲街道沿いに発展してきた地域だ。これから津山の西もしくは北の史跡を訪ねることになるだろう。