廣田神社 前編

 1月19日に兵庫県西宮市の史跡巡りを行った。

 最初に訪れたのは、西宮市大社町にある廣田神社である。

廣田神社

 廣田神社の祭神は、天照坐皇大御神(あまてらしますすめのおおみかみ)の荒御魂(あらみたま)である。皇祖神天照大御神の荒ぶる御魂である。

 「日本書紀」の神功皇后摂政元年条によると、神功皇后の艦隊が、朝鮮征伐の帰途に務古水門(むこのみなと)の沖合を航海していた。

 古代の西宮は、海が内陸に入り込んだ天然の良港であった。これが務古水門である。大和朝廷の船が航海中に停泊する重要な港であった。

古代の西宮の海岸線

 神功皇后の艦隊は、難波へ帰還中であったが、務古水門の沖合で前に進めなくなった。そこで務古水門に入り、卜(うらない)をした。

 すると天照大御神が、我が荒魂を廣田の地に祀るようにと託宣した。神功皇后は、山背根子(やましろねこ)の娘、葉山媛にこれを祀らせた。これが廣田神社の創建由来である。

廣田神社参道

 ちなみにこの時、稚日女(わかひるめ)尊は、自身を生田に祀るように告げ、事代主(ことしろぬし)尊は、自身を長田に祀るように告げ、住吉大神は自身を住吉に祀るように告げた。

 即ち現在の神戸市中央区の生田神社、神戸市長田区の長田神社、神戸市東灘区の本住吉神社である。

参道入口の鳥居

 兵庫県を代表する廣田神社、生田神社、長田神社本住吉神社の四社が、この務古水門の卜から誕生したとされているのだ。

 これら四社は、沖合を進む船の航海の安全を祈るために建てられた神社であろう。

 神功皇后の朝鮮征伐が、歴史上の事実かは分からぬが、「日本書紀神功皇后条を読むと、当時の日本の難波から朝鮮半島までの航海の実態がよく分かる。

 廣田神社から南には、南北に長い参道が続いている。参道南端の鳥居前は、馬場先と呼ばれ、貴族や武将が廣田神社に参拝した時に、下馬した場所である。

参道

 鳥居から廣田神社まで、長い参道を歩く。廣田神社は、西宮の市街地の中にあるが、参道の両脇は古風な松並木になっている。

 朝の冷たい空気の中を歩いた。

 暫く歩くと、廣田神社社頭に至った。

廣田神社社頭

 この日の廣田神社では、厄除祭が行われていたようで、朝から参拝客が多かった。

 廣田神社境内には、コバノミツバツツジの群落があり、毎年3月下旬から4月にかけて淡い紫の花が咲く。

 兵庫県指定天然記念物になっている。

コバノミツバツツジ群落の碑

コバノミツバツツジ

 私が訪れた1月19日には、まだ蕾すらついていなかった。

 さて、境内に入って右に進むと、兜麓底績碑(とろくていせきひ)という碑が建っている。

 この碑は、実は私が前から見たかったものである。

 令和2年に私の父が亡くなった時、私は父が持っていた父方の祖父の日記を譲り受けた。

 祖父は私が生まれる前年に亡くなったので、私との面識はない。

兜麓底績碑のある場所

 祖父は、明治43年に尼崎で生まれた。

 私の家系上の曽祖父は、明治16年に淡路南端の阿万吹上村の旧庄屋の家に生まれた。

 この家は、戦国時代には阿波の武家で、後に帰農した。江戸時代初期に阿波から淡路に渡って今の南あわじ市阿万吹上町の辺りに土着した。

 三男だった曽祖父は、明治年間に本土に渡って明石で商売に従事し、大正年間に西宮で八百屋を始めた。

 曽祖父に子がなかったため、曽祖父の姪が淡路から西宮に渡って曽祖父の手伝いをし、昭和9年の曽祖父の没後に家督を継いだ。この姪が私の祖母である。

 昭和10年に尼崎出身の祖父が祖母の家に婿入りの形で入籍した。

兜麓底績碑

 祖父母は西宮で曽祖父の始めた八百屋を継いだ。そして5人の子を産んだ。

 次男が私の父である。祖父母がやっていた八百屋は、廣田神社の近くにあったが、祖父母の代で店を畳み、今はもうない。

 祖父の日記は、祖父が60歳だった昭和45年5月から、亡くなった月の昭和47年6月まで書かれていた。

 八百屋をやめて隠居した祖父の日常が書かれている。昭和45~47年の西宮の庶民生活が窺われるある意味貴重な記録である。

 昭和45年の三島由紀夫割腹自殺事件や、昭和47年のあさま山荘事件のことも書いている。

 その日記に兜麓底績碑のことが出て来るので、一度訪れたいと思っていたのである。

兜麓底績碑

 祖父の日記の昭和45年5月27日の条に、こう書いてあった。

 お昼前、一寸草野球を見に行ったが残念ながら試合はなかった。其のままずっと足をのばして広田神社まで行って見る。大きな顕彰碑が立っている。余り見なれない碑だったので、何だろうと近寄って見ると、その昔社家町一円が水ききんの折、中村治部と言ふ義人が出て仁川の辺りから水を引いて、広田、中村、越水其の他大社村一円をすくった人の顕彰碑であった。表には俺のような浅学ものにはわからないが、兜麓底績之碑(トロクテイセキノヒ)としてある。西宮も古い町だから、さがせばもっといろんな史跡があるだろう。午后3時頃から読書する。それもつまらない週刊誌ばかり。

 祖父も、55年後にまさか自分の日記がネット上に公開されるとは思ってもいなかっただろう。

 廣田神社の東側に、西宮中央運動公園の野球場がある。祖父は、昼前に野球場に草野球を見に散歩に出て、そのついでに廣田神社に足を伸ばし、兜麓底績碑を見たようだ。

 祖父は野球が好きで、南海ホークスのファンであった。

石碑の側面

 晩年体調を崩した祖父は、死ぬ直前まで執拗に日記を書き続けた。執拗に当ブログを続ける自分のことを省みて、自分は面識のないこの祖父の血を受け継いでいるなとつくづく感じる。

 その祖父の日記の中で、唯一史跡のことが出て来るのがこの条である。体調を崩した祖父が出来なかった史跡巡りを、今自分がやっているような気がする。

 兜麓底績碑のことについては、祖父の記事に書いてあるので省略する。

 55年前に祖父が立った石碑の前に立ち、祖先から自分に流れる血脈について、思いを

新にした。