幡多廃寺塔跡 備前国庁跡

 昨年12月半ばに備前を訪れた。

 今日は、古代備前の政治・信仰の中心地だったと思われる場所を紹介する。

 まずは、岡山市中区赤田(あこだ)にある幡多廃寺塔跡を訪れた。

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幡多廃寺塔跡

 幡多廃寺塔跡のある辺りは、新しい家が軒を並べる新興住宅街である。そんな街並みの中に突如古代寺院の塔の礎石が現れる。

 7世紀後半の白鳳時代は、日本各地に寺院が建てられた時代である。国家の後押しを得て、仏教が一挙に日本でメジャーとなった時代だ。

 幡多寺も白鳳時代に創建され、奈良時代に最盛期を迎え、平安時代末期まで存続したと考えられている。

 幡多廃寺塔跡の案内板には、昭和47~48年の発掘調査により判明した、幡多寺の遺構の図が載っているが、私が今まで見たことがない伽藍配置だ。

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幡多寺の伽藍配置図

 南から、南大門、中門、塔、金堂、北門が一直線上に並び、講堂が脇に建っている。

 例えば日本で最も古い法隆寺式伽藍配置では、南大門から境内に入ると、左右に金堂と塔が並び、奥に講堂が控えている。

 薬師寺式伽藍配置では、南大門、中門を経て境内に入ると、左右に塔があって、奥に金堂があり、そのまた奥に講堂がある。

 南大門から入って、正面に塔があるという伽藍配置は非常に珍しい。何か意味があるのだろうか。

 さて、幡多廃寺塔跡の遺物は、塔の中心を通っていた心柱を受けた礎石であるが、かなりの大きさである。この上に建っていた塔は、かなり高い塔だったのではないか。

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幡多廃寺塔跡の礎石

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枘孔

 礎石の中心に浅い穴があり、その中に深い穴がある。これが塔の心柱を受けた枘孔(ほぞあな)だが、中の深い穴は、仏舎利を収めた孔だと言われている。

 建物の心柱は、伊勢神宮本殿の例のとおり、日本では信仰の対象になる。その心柱の下に、釈迦の遺骨とされる仏舎利を収めたのだ。塔そのものが仏の象徴となった。

 幡多廃寺塔跡周辺からは、白鳳時代の複弁八弁蓮華文軒丸瓦や、平城宮式瓦が発掘された。最盛期は平城京の寺院と遜色ない寺容を誇っていたようだ。備前国が豊かであったことの証左であろう。

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幡多廃寺塔跡から発掘された瓦

 平安時代の様式の瓦が見つかったので、寺が平安時代まで存続していたのが分かった。

 更に下層からは、古墳時代弥生時代の遺構や遺物が見つかったという。遥か昔から、人々が集っていた場所なのだろう。

 ここから北上し、岡山市中区国府市場にある国長宮という小さな神社を訪れた。ここは、備前国庁があったと目される場所である。

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国長宮の鳥居

 8世紀に成立した律令制度で、朝廷が地方を治める中央集権制度が整った。律令制下の行政単位は「国」であり、各国には、天皇が任命した行政上の責任者である国司が派遣された。

 国庁は、国衙とも呼ばれ、国司が滞在し、役人が行政を行った場所である。今でいう県庁のようなものか。国庁の周囲に出来た町を国府と呼んだ。今でいう県庁所在地の都市だ。

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国長宮の祠

 備前国の国庁がどこだったかは、確定されていないが、国長宮の周辺に、「国長」「北国長」「南国長」「長森」といった国庁を髣髴とさせる地名が残っているので、国長宮周辺が、備前国庁があった場所と推察されている。

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国長宮周辺の地名

 また近年の発掘調査で、この周辺から土器や柱穴が発掘されており、国庁があったという説を裏付けている。

 先ほど紹介した幡多廃寺だけでなく、周辺には備前国総社宮や賞田廃寺跡もあるため、古代備前国の中心がこの一帯であったのは間違いないと思われる。

 国長宮の周辺は、広い空き地となっており、かつての国庁がここにあったと想像しやすい。

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備前国庁跡

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 ところで日本の歴史は、土地から上る収穫を巡る争いの歴史だと言える。

 律令制成立以前は、地方の豪族が各地を支配していたが、大化の改新を経て律令制が成立したことで、朝廷が全国の土地を所有し、戸籍を通じて把握した人民に土地を割り当て、国司や郡司を通じて徴税する制度が出来上がった。日本には私有地がなく、全部国有地という、言うなれば社会主義の時代である。

 その後、朝廷は、収穫を増やすために、人々が開墾した土地を私有することを認めるようになった。すると日本中に有力者の私有地である荘園が出来た。

 荘園を開発した領主たちは、有力者や国司に荘園を寄進することで、地方行政に進出した。一方東国では、下級貴族が開発領主として土着し、土地争いの解決を武力に頼るようになる。武士の登場だ。

 武士は、自分たちの土地を安堵してくれる者を棟梁として立てるようになる。源頼朝足利尊氏が武士団から圧倒的な支持を得たのは、自分たちの土地を保証してくれたからである。

 その後の歴史は、よく知られている様に、最終的に日本中のほとんどの土地が武力を持つ武士に押さえられてしまった。

 日本の歴史は、朝廷が100パーセント所有していた日本の国土とそこから上る収穫が、徐々に私有化され、最終的に武力を持った武装集団によってほとんど私物化されてしまった歴史とも言える。

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備前国庁跡の紅葉

 律令制の地方の拠点である国庁は、国家が全ての土地と人民を管理していた日本の行政史上のスタート地点を象徴する場所である。

 私が訪れた時、備前国庁跡には、12月になったというのにまだ紅葉が残っていた。

 人間の土地争いに関係なく、昔から変わらないのは、季節の移り変わりだろう。