三ッ塚廃寺跡 後編

 三ッ塚廃寺跡の東側にライフピアいちじまという公共施設がある。その東側の山際斜面にあるのが、天神窯跡である。

天神窯跡

 ここは、三ッ塚廃寺で使う瓦や須恵器を生産していた窯跡である。

 斜面に穴を掘って、その上に天井を付けた穴窯の跡である。天神窯跡には、全部で4つの穴窯があった。

 発掘時、穴窯の天井は失われていたが、側壁や床は残っていた。

発掘された天神窯跡

 穴窯は、斜面上に細長く作られる。窯の下側に燃料となる薪をくべる焚口、窯の上側に煙を出す煙道という2つの穴が開けられている。

4号窯の断面図

 焚口から薪を入れて、火を着けて焼成部で燃やすと、穴窯の中で上昇気流が発生して、焚口から空気が入り、上昇して煙道から抜けていく。焼成部で着火された炎が上昇気流に乗って上に上がっていく。

 穴窯の中心の燃焼部に瓦や鴟尾などを置くと、上昇する炎に包まれて焼成されるわけだ。

 4号窯の下側からは、須恵器や鴟尾の破片が発掘された。

発掘時の4号窯

発掘された鴟尾の破片

 鴟尾と言えば、東大寺大仏殿の棟の両端にも載っているが、そのような立派なものがこの三ッ塚廃寺の屋根にも載っていたのだろう。

 しかし、三ッ塚廃寺の小規模な金堂の上に載っていた鴟尾は小さかったのではないか。

4号窯跡

 4号窯跡の中には、鴟尾のレプリカが展示されていた。実際にこのような形で焼かれていたのだろう。

鴟尾のレプリカ

 1,2号窯では、瓦が生産されていたようである。穴窯内に焼台として階段が設けられていた。この階段の上に瓦が並べられ、焼かれたのだろう。

 発掘された土の階段は、当時に造られたままのものだ。

 3号窯は上下2段に分かれ、ここでも鴟尾が焼かれていたようだ。

発掘された1,2,3号窯

1号窯跡

3号窯跡

 白鳳時代奈良時代には、瓦葺の屋根というのは、非常に高価なものだった。この時代に瓦葺だった建物は、寺院や、駅家(うまや)、国庁といった国家の建物だけだったろう。

 当時の庶民の家は茅葺であった。

 中世になっても板葺の家などは贅沢で、鎌倉時代でも小田原に板葺の家が建つという噂が立つと、近隣から見物客が大勢集まったという。

2号窯跡の焼台

 そんな時代に建った瓦を葺いた寺院建築などは、この世のものと思えぬような贅沢な建物だったろう。

 そう考えれば、寺院は国家の手によるか、国家の援助がなければ建てられなかったと思われる。

 そもそも瓦を作る技術を習得するのも大変だったことだろう。

 寺院の遠くで瓦を焼いて運べば、それだけ運搬費用がかかる。白鳳時代に各地に建築された寺院の近くに、国家の援助を受けて窯が作られ、寺院で使用する瓦を製造していたことだろう。

 白鳳時代奈良時代には、寺院建築は国家事業だった。

 三ッ塚廃寺跡の東側には、天神窯跡から出土した鴟尾や、三ッ塚廃寺跡から出土した軒丸瓦などを展示した市島民俗資料館がある。

市島民俗資料館

 しかし私が訪れたときには閉館していた。

 白鳳時代の廃寺跡や窯跡を訪ねて考察するだけで、当時の時代背景や経済事情が見えてくる気がする。

 遺跡は、その時代を冷凍保存しているようなものか。