9月10日に丹波の史跡巡りをした。まだ残暑の厳しい日だったが、丹波は曇り空であった。
国道175号線を北上し、兵庫県丹波市市島町に入り、市島町上田(かみだ)にある三ッ塚廃寺跡を訪れた。
ここは、7世紀後半に開かれて、その後廃寺となった寺の遺跡だが、昭和47年に発掘され、昭和51年に国指定史跡になった。今は公園として整備されている。
この廃寺の伽藍配置は独特である。東塔、金堂、西塔の3つの建物の基壇が一直線に並んでいる。2つの塔と金堂が一直線に並ぶ伽藍配置を持つ廃寺跡は、全国に3つしかないらしい。
この寺は、白鳳時代に建立されたが、奈良時代末期にはさびれてしまったようだ。
3つの基壇のみが残ったが、並んだ基壇が3つの塚のように見えたので、いつしか三ッ塚と呼ばれるようになった。
3つの基壇の内、東塔と西塔の基壇は、瓦積みの基壇化粧が再現されている。
それぞれの基壇の上には、チャート岩の建物の礎石が残っている。
東塔基壇の中央には、柵で囲まれた場所があるが、これは地下約1.4メートルに据えられた東塔の心礎のある場所である。東塔の心礎は地下に現存している。
上から覗いてみたが、心礎の上には枯草や土が溜まっていて、礎石は見えなかった。
三ッ塚中央の金堂の基壇は、基壇化粧がどのようなものだったか分からなかったので、芝生張りで再現されている。
基壇上に残る礎石の配置から、ここに桁行五間、梁間四間の金堂が建っていたと推測されている。
このサイズの金堂は、全国的に見ても異例に小規模な金堂である。2つの塔に挟まれた小さな金堂の寺院が思い浮かぶ。
西塔の基壇からは、心礎は失われているが、東塔の心礎と同じく、地下に据えられていたものと思われる。
西塔基壇の中央に、心礎がない代わりに心柱が再現されていた。
礎石配置からして、方三間の塔が建っていたと推測されている。
基壇の南側には、南門と中門の跡が発掘されている。南門は伽藍中央の金堂から僅かに西にずれている。
基壇の東側には東門の跡がある。発掘された東門の掘立柱の間は約1.6メートルで、他の門よりは狭く、簡易な構造の門だったと思われる。
伽藍の周囲は築地塀により囲まれていた。基壇の北側からは、築地の跡が発掘された。
築地跡からは、二重の石の列が発掘された。
築地塀が伽藍を囲み、塀に東西南北の門が付けられ、そこから境内に出入りするようになっていたのだろう。
築地塀の外になるが、廃寺の北東側からは、桁行六間、梁間二間の建物跡が発掘された。
この建物の柱は細かったようで、住居か倉庫のようなものが建っていたのではないかと思われる。
大化の改新後、孝徳天皇が出した薄葬令により、古墳の築造が禁止され、その代わり各地の豪族たちは寺院を建て始めた。
白鳳時代には、全国的に寺院建築の一大ブームがやってきた。当時建てられた寺院は、大体平安時代には廃寺になっていった。
建てられた建築物から見ると、白鳳時代は寺院の時代と言ってもいいだろう。戦国時代は山城の時代と言っていい。
現代に建てられた建物の痕跡から、将来の人々が現代を何の時代と呼ぶのか、興味をそそられるところだ。