天球丸跡の見学を終えて、久松山にある山上ノ丸に向かった。

久松山には、守護大名から戦国大名化した山名氏が、天文十四年(1545年)に城を築いたが、その後秀吉の手で陥落することになった。
今の山上ノ丸の石垣群は、秀吉による落城後に整備されたものである。
山の中腹に、鳥取城のヌシの桂蔵坊を祀る中坂稲荷がある。


中坂稲荷のある場所は、少し開けた曲輪のようになっている。ここも城の機構の一つだろう。
山道を登っていくと、所々にクマ目撃情報多発の看板が出ている。

携帯する熊鈴を鳴らしながら登っていく。
山頂に近づくと、山伏の井戸という井戸の跡があった。

秀吉による兵糧攻めに際しては、この井戸の水が城兵にとって貴重な水源だったことだろう。
ここから更に登っていくと、山上ノ丸の本丸の石垣が見えてくる。



これは壮大な石垣だ。
城下から久松山を見上げた時に、山頂付近に見えた石垣は、これであった。
本丸の下には、出丸という曲輪があった。


この出丸跡からの眺めがとても好かった。久松山からは、伯耆方面から城の南東まで、一望できる。
鳥取平野を守るには、好適の位置にあったことが分かる。

出丸跡には、瓦くずが大量に落ちている。中には池田家の家紋である揚羽蝶が刻まれた軒丸瓦がある。
元禄五年(1693年)の大火で天守が焼け落ちた頃からここに散らばっているものだろうか。

ここから更に本丸へと上がって行く。

本丸跡は広大な曲輪である。視界を遮るものがなく、まさに「天空の城」である。

本丸跡の中央に、池田長吉の時代に掘られたと言われる車井戸の跡がある。

本丸跡の北西角に、元禄五年(1693年)まで天守が建っていた天守櫓跡がある。

天守櫓跡に登ると、そこには絶景が広がっていた。私はまだ鳥取県の一部の史跡しか巡っていないが、ここからの景色が鳥取県有数のものであると信じる。

先ず北には日本海が見えるが、その手前に鳥取砂丘が白い一線のように見える。

視線を少し西にずらすと、千代川の河口付近が見える。

この方向は、空気が澄んだ日には、隠岐が見えるという。
更に西に視線を転じると、日本最大の池である湖山池が見える。

更に真西の方面は、雲に覆われているが、晴れていれば伯耆大山が見えたことだろう。

鳥取城が築かれたこの久松山からは、鳥取平野をほぼ一望出来る。この景色を観ると、この城の重要性が分かる。
天守櫓跡には、基礎の石垣の窪みが残っていた。

鳥取の宝とでも言うべき眺めを楽しんだ後、二ノ丸跡に赴いた。


二ノ丸跡から東に行くと、一段下がって三ノ丸跡の曲輪がある。

三ノ丸跡の東方は、三ノ丸の切岸になっていて、一部石塁が残っている。

久松山は、東側の本陣山と尾根が連なっていた。秀吉が本陣を置いた山とつながっているのだから、油断は出来なかっただろう。
三ノ丸、二ノ丸は、東の尾根から来る敵に向けた防御設備である。
三ノ丸の東には、虎口跡と思われる石垣があった。

ここが、山上ノ丸の東側の入口である。
山上ノ丸の石垣群は、なかなか見ごたえがある。そして天守櫓跡からの眺望は、山陰随一と言ってよいだろう。
この名城を訪れることが出来たことを感謝した。