洲本市街の南側に聳える標高約133メートルの三熊山の山上に、室町時代に安宅氏の手により築城された洲本城跡(上の城)がある。
昨日は江戸時代に築かれた山麓の洲本城跡を紹介した。以後洲本城跡と書くときは、三熊山上の洲本城跡のことを指す。
洲本城跡は、私が訪れた4つ目の続日本100名城になる。日本城郭協会は、日本100名城と続日本100名城を選定しているが、今後当ブログでは、面倒なので合わせて日本200名城と称することにする。
私は日本100名城は既に7城訪れているので、洲本城跡は私が訪れた11番目の日本200名城になる。城巡りで見ると、私の史跡巡りは始まって3年経ったが、まだ5.5%しか進んでいない。
三熊山上まではドライブウェイが通っていて、城跡まで車で行くことが出来る。
洲本城は、紀州水軍を率いていた安宅氏が、淡路に進出してきて、大阪湾制御の拠点として築いた。
その時期は、永正七年(1510年)とも大永六年(1526年)とも言われている。
天正九年(1581年)の秀吉の淡路攻めで、安宅氏は滅亡した。その後仙石秀久が在城し、更に天正十三年(1585年)に賤ケ岳七本槍の一人脇坂安治が城主になった。
安治は、洲本城に24年間在城し、今に残る山上の石垣群を築いた。
下から上がっていくと、まず見えるのは腰曲輪の石垣群である。
洲本城跡の石垣群は見事で、規模で言うと、但馬竹田城跡を上回るだろう。
脇坂安治は、淡路水軍を率いて、洲本城を拠点に秀吉の九州攻め、小田原攻め、朝鮮出兵に参戦した。
洲本港の側に聳える洲本城は、拠点として丁度よかったのだろう。洲本城は、山城だったが、海の城と言ってもいい。
大手門跡を抜けて左に行くと、今は観光駐車場として利用されている馬屋がある。
馬屋では、その名の通り軍馬が飼われていたことだろう。
馬屋の南側の展望台からは、三熊山南側の景観が広がっている。
ここから眺めると、由良の成ヶ島や、紀淡海峡に浮かぶ島々が見える。由良の南は太平洋である。わが史跡巡りも、ついに太平洋の近くまできた。
さて、馬屋から本丸跡を目指して歩き始めた。
馬屋の駐車場を出て北に向かうと、上の写真の場所で道が左右に分岐する。本丸跡に行くには、左側に進む。
すると右手に立派な石垣が連続するのを見ながら歩くことになる。
突き当りにある石垣が、南の丸東側の石垣である。下の写真の石垣が少し高くなっているところに、南の丸隅櫓が建っていた。
この場所を右に折れると虎口の石垣がある。
南の丸隅櫓の下を突破しないと、本丸跡には行けないようになっている。
虎口を通って本丸跡に近づくと、左手に南の丸の石垣が迫って見える。南の丸はかなり大きい曲輪である。
更に先に進み、左に曲がると、虎口がある。そこを通過すると本丸跡に至る大石段の前に出る。
本丸跡の石垣の規模はかなり大きい。洲本城跡の石垣は、樹木に覆われていて、三熊山下からはこの巨大な石垣の遺構は見えない。
もしこの石垣の遺構を遠方から一望出来たら、洲本城跡は全国区の観光名所になっていただろう。
大石段を上ると、南の丸の曲輪の全貌が見えてくる。
南の丸は、かなり広い曲輪である。
大石段を登りきると、また虎口がある。
本丸に至るまで、何重もの虎口を突破しなければならない。
ここを通過すると、本丸跡に出る。本丸跡の西側には、石垣が張り巡らされている。
この石垣のある辺りは、武者走りと呼ばれている。本丸の守備に当たる兵卒が、この石垣に拠って戦うことを想定して作られた防御機構だろう。
本丸跡まで登ると、目の前に天守台の上に聳える模擬天守が見える。この模擬天守は、昭和3年に建てられた。
脇坂安治は、慶長十四年(1609年)に伊予大洲藩に移封になった。その翌年洲本は姫路藩主池田輝政の子・池田忠雄の領地となった。
戦の世が終わると、家康にとって洲本城はもはや不要の城であった。池田輝政は洲本城を廃城とした。
池田忠雄は、由良成山城を拠点とした。
この洲本城跡の石垣群は、400年以上前に築かれたものだ。淡路水軍の長として、秀吉の九州攻め、小田原攻め、朝鮮出兵に従軍した名将脇坂安治が地上に残した記念物である。
秀吉の天下統一という大事業の一端を、この立派な石垣群から感じることが出来る。