二ノ丸跡の見学を終えて、天球丸跡に移動する。
天球丸は、初代鳥取藩主池田長吉の姉であった天球院に因んだ名前である。
若桜鬼ヶ城主山崎家盛の夫人だった天球院が、山崎家を去って長吉の下に寄寓し、この曲輪に造られた居館に住んだことから名づけられた。
天球丸は、山下ノ丸の最高所に位置する曲輪である。高さは標高51メートルになる。
鳥取城に石垣が築かれるようになったのは、吉川経家の自刃後に城主となった宮部継潤以降のことである。
元和三年(1617年)の池田光政の入城までの宮部継潤、池田長吉の時代に、三段の石垣を持つ天球丸の石垣が先ず築かれた。
池田光政入城後、それまでに築かれた石垣の上に、追加で石垣が築かれた。
石垣の上に石垣を継ぎ足した形で築かれたので、江戸時代中頃から、石垣の継ぎ目の部分がはらみだして、崩落する危険性が出てきた。
そのため、はらみだした部分の上に補強石垣を築いたり、盛土をして、崩落を防ぐ方法が取られた。
天球丸跡の石垣には、半球形の石垣が張り付いたように築かれている。
この半球形の石垣は、巻石垣と呼ばれている。
石垣崩落を防ぐために築かれた盛土の上に貼られた石垣である。
このような半球形の石垣は、全国的にここにしかなく、今では鳥取城跡のシンボルとなっている。
天球丸という名前は、この巻石垣から来たものだと思っていたが、先ほど言ったように天球院が住んだ場所ということが由来である。
巻石垣は、文化四年(1807年)ころに、この箇所の石垣が崩れそうになったため、補強のために築かれた。
川の護岸や港の突堤に関わりのある職人が工事に携わったのだという。
天球丸跡の石垣は、平成に入ってから大規模な修復工事が行われたため、石垣の継ぎ目のゆがみがなくなった。
そのため今では安心して見学できる。
天球丸跡の曲輪の上に出るには、石垣で囲まれた通路を通る。
曲輪は広大で、二本の丈高い松が印象的である。
ここから下を見下ろすと、鳥取城跡下が一望できる。
天球丸跡の下の曲輪の南西角にある楯蔵跡もはっきり認められる。
享保五年(1720年)の石黒火事で焼けるまで、天球丸の南端には、三層櫓が建っていた。
その後、三層櫓は再建されなかった。その代わり、幕末に三層櫓があった場所に、武術の稽古所や武具蔵が建てられたそうである。
平成2年からの天球丸跡の石垣補修工事の際に、この三層櫓や武具蔵の礎石が発見された。
この同じ場所に異なる年代に建てられた建物の礎石が、今は保存されて公開されている。
さてこの天球丸跡の北側から久松山上にある山上ノ丸への道が始まっている。
戦国時代の鳥取城の遺跡である山上ノ丸は、次回に紹介する。