山上ノ丸の虎口から、秀吉が鳥取城を兵糧攻めした時に本陣を置いた太閤ヶ平(たいこうがなる)を目指した。
太閤ヶ平は、鳥取城跡と合わせて国指定史跡になっている。
久松山の東に連なる本陣山にある。

太閤ヶ平への道の途中で何度か岐路が訪れる。右に行けば長田神社に下りる道まで来たら、真っ直ぐ進むのが正解である。
それにしても、クマ出没の看板には緊張する。熊鈴を鳴らしながら先に進んだ。
次に二股に分かれる岐路が来る。ここは右が正解である。

本陣山への道は、登山道がはっきりしていて、歩きやすい。それほど急な道はない。
それでも山上ノ丸から太閤ヶ平まで、30分以上はかかる。

途中土橋のような道もある。

しばらく歩いていくと、急に舗装路が現れる。舗装路の先に無線中継所があった。
この舗装路の右手が、太閤ヶ平の土塁であった。

舗装路の突き当りが無線中継所だが、その手前に太閤ヶ平の説明板があった。

この縄張図は、上が南、下が北、左が東、右が西である。西に鳥取城があるので、西には出入口がなく、守りが固められているのが分かる。
基本的に、土塁で周囲を囲み、その周囲を空堀で囲んでいるという造りである。
太閤ヶ平は、天正九年(1581年)に築かれたようだ。
まず東側の空堀と土塁を見てみよう。

南北に土塁と空堀が続いているが、その中央に本陣への出入口がある。

この出入口から南を見ると、土塁と空堀が続いていて、途中で屈曲しているのが分かる。


さて、東側の出入口から本陣内に入ると、周囲を土塁に囲まれた平らな空間であった。



本陣の中央には、石が転がっているが、これが城郭と関係があるのかは分からない。

先ほどの縄張図を見ると、土塁の北西と南西に、少し出っ張りがある。西からの敵を城の側面に行かさないための防御機構であろう。

北西側の土塁が、一番鳥取城に近い。ここに詰めた兵士は、鳥取城側から来る敵に備える役目だっただろう。
南西側の土塁も高く築かれている。


南西側の土塁上には、太閤ヶ平と刻まれた石碑が建っている。

また、南西側の土塁の下には空堀があり、その西に更に土塁がある。


城の南側には、広い曲輪が広がっている。

城の南東隅が周囲より一段高くなっている。高くなった場所の周囲を土塁が囲んでいる。恐らくここが秀吉が居た本陣だろう。
その本陣を守るために、南側の曲輪が作られたのではないか。


太閤ヶ平の南側には、出入口があり、土橋がつながっている。



土橋とその左右の空堀、土橋の先の土塁の結構を見ると、この出入口が太閤ヶ平の大手であったと思える。
太閤ヶ平は、秀吉が鳥取城を兵糧攻めする際に築いた即席の城である。
墨俣一夜城から始まって、秀吉が即席の陣地を作って成功した事例は数多い。
周到に謀議を巡らして、一旦着手したら間髪を入れず素早く事を実行するという秀吉の仕事の進め方は、どんな分野にも共通する成功の秘訣であろう。